前回の記事『子育てと制作』におもいがけずFBでたくさんのコメントをいただきました。それでもう少し書きたい気持ちが生まれたのと、前回の記事については、なんとなく自分の中で違和感というか誤差というか、正鵠を得ていない感じの不全感が残ってしまってもいて、それで続きを書いてみようと思います。
たとえ比喩的表現としても『柱に子どもを縛り付けて泣かしてでも表現したいものを持っている母親』像というものを、私は肯定しているのかな、というおもいがそもそもあります。確かに伊藤野枝も与謝野晶子も尊敬しています、でも自分自身はそれほどの表現者でもなかろうというもうひとつの自信のなさもあるわけです。
あるいは、そんなふうに息巻いてあれかこれかを迫らなくてもいいようなおおらかさのもとでの芸術というものをもっと信じてもいいのではないかとも。
それにカテゴリーというものもあります。
工芸的な制作をしている人は暮らしの中での制作がしやすいでしょうし、コンセプチュアルな作品のひとはまた違いそうです。
北野武も小林賢太郎もアトリエを持ち絵を描きモノを作って思考し創造するとききます。そうなると、『子育てと制作』というよりは『日常と芸術表現』という対立事項に敷衍されていきます。誰もみな、相反する二つの現実に引き裂かれながら自分の表現を確立させようとしているんだなというふうに。
私自身、子育てと言ってもいちばん下がもう高3なのでそれももうじき卒業。今ではむしろ、子どもたちが小さかった頃の寝る前のお話やら一緒に作って食べたおやつやらが懐かしいし、からっぽになったお弁当箱を洗う幸せもあと一ヶ月。苦労もあったかもしれないけれど楽しみはその何倍もあって、それらすべてが私の表現の肥やしになってくれているとしたらこんなにすばらしいことはないと思っています。『償い』だなんて悲壮な言葉は使わないでときっと子どもたちも言ってくれると信じて。