見つけたものたち
2024-03-18T15:00:54+09:00
hisakoinui
乾 久子の日常
Excite Blog
13年目を歩く(2)猪苗代
http://tinystory.exblog.jp/29982859/
2024-03-18T14:59:00+09:00
2024-03-18T15:00:54+09:00
2024-03-18T14:59:15+09:00
hisakoinui
旅の記録
猪苗代のアルパインロッジに泊まろうと思ったのは、ここで働く平山とし子さんにもう一度会いたいと思ったからです。
2021年の夏、10年目を歩く旅をしている時にここで出会い、富岡から避難してきた高校生たちとのお話しをたくさん聞かせていただきました。10年目の旅をまとめながら平山さんに掲載の確認などをしている中で、もう一度お話を聞きたい思いが生まれたのです。
アルパインロッジは今日も美味しい朝ごはんでした。食べ終わるころに平山さんが会いに来てくださいました。今日は勤務日ではなかったのに、私からの事前連絡でわざわざ出向いてくださったのです。
平山さんは3年前より少しほっそりとしてちょっと綺麗になられたように感じました。そして明るく若々しくなったようにも。(もちろんそんなことは口には出せませんが、男であれ女であれ、以前より綺麗になったりかっこよくなっていたりする姿を見るのは好きです。何かいいことあったかなと想像するととても楽しいからです。)
平山さんは富岡の子どもたちとのその後の交流のお話をまずはしてくださいました。3年前には、震災時ここに避難して来てお世話をした子に結婚式に呼ばれていることを嬉しそうに話してくださいましたが、今日は、その子がもうお母さんになっているというお話を聞きました。そんなふうに、平山さんの震災後の物語は続いていたんだとすごく嬉しくなって、その子はもう平山さんの外孫ですねというと、本当に!と相好を崩すのでした。平山さんは、3年前にお聞きしたような子どもたちとの交流やご飯作りで彼らを愛したエピソードをまた今度も話してくれましたが、3年前には口に出さなかったことも話してくださいました。
ひとつは、富岡の高校に入学して来るバトミントンの選手たちは特別な存在なので、彼らの帰還後のことなどは手厚い待遇となっていること。選手たちのバトミントンの活躍を伝える立派な冊子を何冊も見せてくださいましたが、そのページを開きながら、結局、あの子たちは復興の広告塔になっているんだよねとおっしゃるのでした。
もうひとつは、猪苗代にいる自分には、本当の共感はできないんだということを何度もおっしゃったことです。平山さんには、浪江町から猪苗代に来たお知り合いがいらっしゃるそうですが、その人の苦労は本当にはわからないというのです。浪江の人たちは、同心円の距離で言ったら原発からはある程度あったけれどあの日の雲の動きがあったでしょう?だから相当厳しいことになったのに、原発お膝元の大熊町とは補償額が違ってすごく気の毒なんですよ。でもそういうこと、私たちには、心から共感できてないし、そもそも本当の共感なんてできないことなんです。それほど、被災のひとつひとつがひとりひとりデリケートで、みんなそれぞれの事情があります。だから気の毒と思っても100パーセント共感できているとはとても言えません。福島ってひとくちで言っても本当にそれぞれで、、といったことを話してくださったのでした。
そうしたことを聞くと、それでは私はどうしたらいいのだろうと思ってしまいます。私など、福島県民でもないわけですから。多くの暖かな福島の人たちが、そんなことありません、福島を思ってくださるだけで嬉しいんです来ていただけるだけでありがたいんですと優しい言葉をくださるけれど、平山さんですら被災当事者への遠慮と届かなさを持つのだから私など話にならない距離にいるのだと思いました。
今編集中の10年目を歩くの本の原稿を長男に読んでもらったことがあります。その時彼は言下に、お母さんは尊大で勉強不足だと言いました。それは具体的には今日平山さんが言ったようなことに私はしっかり向き合わず何か自分の想像力でカバーできているような気になっていたことを指すのだろうと長男の言葉を反芻しました。その時は厳しい言葉をくれるのはありがたいと思ったのですが、ただそう思っただけで止まっていた私だったかもしれません。
この旅から帰って数日後に会った浜松の友人との会話の中でも、福島に行って来た、13年目だしと伝えると、自分には実感が全然ない、親戚か友だちが被災したとかそういうことでもなければ自分のことにはならないと思うと言われました。その突き放すような言い方の方が、福島の人たちを傷つけないのかもしれないと思ってその言葉を聞きました。
でも、そうであっても、福島を歩きたい福島を知りたい私がいるのです。
ともあれ、私が福島を歩きその展示をしたり記録を残そうとしていることをお伝えした2021年とその後のやり取りの中で、平山さんは私の何かを信じてくださったのかもしれません。それで3年前には聞けなかった彼女の本音のようなものに触れさせていただけだのだとすれば、それは何かの広がりであるのかもしれません。そう思いたいものです。
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13年目を歩く(1)浜松から横浜そして猪苗代へ
http://tinystory.exblog.jp/29979079/
2024-03-17T21:19:00+09:00
2024-03-18T14:54:52+09:00
2024-03-17T21:15:43+09:00
hisakoinui
旅の記録
3月10日に会津若松にある福島県立博物館でのトークを聞きに行きました。その前日にも翌日にも幾つか予定を入れながら、震災後13年目の福島を歩きました。その時のことを書いておこうと思います。
3月9日土曜日
浜松から横浜そして猪苗代へ
あまり日付けを意識することなく鴨江アートセンターのワークショップを申し込んでいました。活版印刷のワークショップです。定員10名。あの活字を拾う工程をさせてもらえる、自分の言葉を活版印刷してもらえる、それだけで楽しみでならず、募集開始直後に申し込みました。この日の午後二時半から必ず行きますと言って入れていた予定が横浜であったことには後から気づきました。 午前10時少し前に鴨江アートセンター着。
ワークショップは12時まで。12時17分のひかりに乗らないと横浜の予定に遅刻しそうなので、順番待ちしないで一番で印刷してもらうほかはないとまなじりを決して臨みました。 名刺サイズの紙にひらがなで好きな言葉を活版印刷する、というとてもシンプルなワークショップ。紙の四辺に貼り絵で装飾をする作業に少しかかりましたが、私は一番で活字拾いをさせてもらいました。ひらがな限定であっても活字には種類がありました。逆さまになっているそれらをピンセットで拾って並べます。楽しい作業です。銀河鉄道の夜の中のひとつのシーンにジョバンニが活字を拾うところがありますがそれを思い出しました。そして、ああ、文字がモノになっている姿っていいなあと活字の並んでいる箱を眺めました。
こ と ば の ま わ り
と、拾って試し刷り、そして本刷り。
名刺サイズのいろんな色の紙に刷らせていただきました。紺とか薄茶とかベージュとかグレーとか、白とか。。活版印刷は暖かい。プリントではない、インクの吹き付けではない、印刷。金型にインクをつけてガチャンと押して紙に押し付けられて写る文字のひとつひとつは、物質感と温度と強さがありました。少し乾かしてから、大切に名刺ケースにしまいました。
1番目にやれたので、他の参加者の方々の完成作はみずに退席し、浜松駅に向かいました。まだ11時半を回ったところでした。 12時17分のひかり指定券は持っているけれど、それならばこだまにしようと、11時55分のこだま号自由席に乗り込みした。ひかりは混んでいて三列席しか取れなかったしスーツのサラリーマンの忙しそうな男性に囲まれてサンドイッチ食べるのもなあと思ってしまう
こだまの二列席の窓側に座ったならば、富士川を渡る頃には美しい富士山の眺めが堪能できました。
横浜での用事はジネンコロキウムという研究会への参加でした。自然科学と芸術のクロスカルチャー、今日のテーマは『ありえないものをつくりたい』です。彫刻家で友人の婦木加奈子さんと科学者の岩見健太郎先生の発表とクロストーク。婦木さんは鉄で作った浮き輪やランドセルの彫刻作品のお話、岩見先生は、物質の屈折率を変える研究のこと、とても興味深く聞きました。ともにありえないものを作っているところがまずは面白くて、ありえないと言いながらあり得ているところが面白くて、何よりありえないものを作っている人たちの姿はとても魅力的で参加の人たちのリアクションも楽しかった。
でも今日は、猪苗代までは行っておきたい旅程なので、ジネンコロキウムの最後の30分を早退して東京駅へ。東北新幹線で郡山、郡山からは磐越西線で猪苗代と移動しました。
猪苗代着21時。
宿泊先のアルパインロッジには予約の時と今朝と2度の電話で駅までの迎えを確認していたのだけれど、次々と迎えの車が去っていく中、最後の車がいなくなって、私ひとりが駅に取り残されたのでした。気温はマイナス4度。横浜では12、3度はあった感じなので誰もいない猪苗代駅はとても心細くて寒かったです。雪も降っています。もちろんすぐに電話をしました。宿への電話は21時までとあったので不安だったけれど長いコール音の後に出てくれました。よかった。ごめんなさい!すっかり忘れていましたということでした。
朝には浜松で活版印刷をしていたのに今は雪の降る猪苗代の夜の駅でひとりで凍えている自分がなんだか愉快でした。車は10分後には来てくれました。寒かったでしょうすみませんとたまさか恐縮されてかえって恐縮しました。 ◦
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犬と人間
http://tinystory.exblog.jp/29964799/
2024-03-14T19:04:00+09:00
2024-03-14T19:04:26+09:00
2024-03-14T19:02:16+09:00
hisakoinui
文化一般
私はどこかで犬は犬なんだと思おうとしていた。こんな大がかりで高額な医療を受けるのはおかしい、何もしなければ余命が短いとしてもその時間、最大限に愛すればよいではないか。
それでも獣医師の言うことに全て従ったのは、どうしても愛犬を失いたくないという一点に尽きる。
手術は1度目はうまくいかず再手術となった。その場合の死亡リスクはかなり高いと事前に説明があったがそれも行った。術後には輸血という言葉を聞きドナー犬という存在を初めて知った。
周囲にドナー犬のことを聞いてみると、犬に輸血?という反応がスタンダードだった。当たり前だと思ったがSNSでの発信には多くの閲覧とリポストがあった。ありがたいと思ったが、同時に、ガザ地区の傷ついた子供たちへの輸血の話なら良いが、犬の輸血を募ったことを恥ずかしく思った。
結果として、再手術後、点滴を受けながら10日間の入院を経て、飼い犬のクッキーは生還した。輸血はしなかった。
『面会』も含めて毎日のように通った動物医療センターの待合室は、はじめはとてもシュールな風景に見えた。心配顔で深刻な様子の人間たちとその膝にいるペットたち。自分のことはさておいて、SF小説のワンシーンのようだった。近未来では人はもう子を産まず、人のクローンかペットと暮らしているのだ。
ところで、よく言われる、犬だって家族だものね、という言い方は、突き詰めれば犬は犬なんだという考えのカテゴリーのように思う。そこにはやはり人間の上位がある。
年明けからずっと続いたクッキーの治療で思ったことは、人間だって動物なんだということだ。
大腸癌に罹ったら、その部位を取り除く。縫合にはリスクが伴うし、細菌に侵されて腹膜炎を起こすこともある。
人間も犬と同じだった。犬も人間と同じというよりは、この言い方がしっくりくる。更に言えば、犬の方が人間よりも生命力がある。大腸癌の術後10日で庭を走り回ることは人間にはできそうもない。動物たちは瀕死で重篤で死が目前でもその時まで自分で自分を生きるのだろう。
そしてこれはちょっと自分でも思いがけないことだったが、私たちだって動物として生きているんだ、という感覚が生まれた。そしてもっともっと動物として生きたいと思った。
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多分とても贅沢なぼやき
http://tinystory.exblog.jp/29937392/
2024-03-06T18:55:00+09:00
2024-03-06T19:16:27+09:00
2024-03-06T19:16:27+09:00
hisakoinui
ぐだぐだ
もう子どもが家にいるわけでもないのだから、ごめんね今日はご飯作らないからと言って家を出ても、さらに、ごめんね今夜はアトリエに泊まるから、とか、さらにさらに、連絡もせずに繁華街を深夜までひとりでさまよい歩いても、多分大丈夫なんだろうけれど、毎日、きちんと食卓を整える私がいます。
ひとりで過ごす時間はとても大切だといつも思います。
その時間をどれだけコンスタントに作れるかが、私における要です。でもなんとなく責任を感じてしまうのでその時間がとりにくい、のでしょう。
責任。
夫が最近の健康診断で高血圧と言われたというので、責任を感じます。やっぱり味が濃いのかなあ私の料理、とか、味噌汁を一日二回も出したら塩分過多でしょうねやっぱり、でも朝のが余ったら夜も味噌汁をだしてしまってそれがいけなかったの?など、責め苛まれるわけです。
同じものを食べている私は上が90しかない低血圧であるのだから、責任は私にはないと抗弁してもいいけれど、なんだか申し訳ない気がしてしまうのです。
そこから自由になるのはまずひとりの時間と空間な訳で、とりあえず、わずかながらも広がりがあった今日でした。
誰も知らない私になろうとしているのにまだまだだと思います。
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いろいろと振り返り中
http://tinystory.exblog.jp/29883610/
2024-02-16T23:26:00+09:00
2024-02-17T07:34:04+09:00
2024-02-17T00:18:58+09:00
hisakoinui
教える仕事
片付けの方は、長くお世話になったある高校の仕事が今年で終わるので、準備室に長年積み重ねてしまったもろもろをやっと持ち帰って来たところです。
今は、アトリエにしている家のリビングの床いっぱいに荷物が溢れています。
年度ごとに一冊スケッチブックを新しくして、その年の生徒たちと同じ制作を毎年してきたので1996年からのスケッチブックが積まれてしまいました。
この年はこんなことをしていたんだなあと懐かしいけれど、私って本当に下手くそで恥ずかしい。時々、あ、この絵はいいなと思うものが出てきて嬉しくなったりもするけれど。。
素描の授業は毎年1学期にやっているのですが、昔より最近の方が上手い感じがします。生徒たちと一緒に成長できていたのだとしたら、いい仕事だったんだと思います。
花のスケッチは、水彩ではなくボールペンや色鉛筆の線描だけで描いているものが、自分のドローイングとクロスして良い感じでした。
まとめて全部捨ててしまうつもりだったけれどなんとなく出来ずにいます。
シラバスを見ると、ほうこの年はこんなことをと思ったり、
毎回の授業ごとに提出させていた制作ノートのコピーが出てきて、生徒たちえらいなあと感心したり、、。
五十音写真面白かったです!という感想がたくさん出てきたのだけれど、50音写真ってなんだっけ?とすぐには思い出せません。
写真の授業を一生懸命やっていたのは、スマホが普及するずっと前で、今なら高校生の方が写真は上手そうだけどその頃はまだ私でも教える側にいられたんだと思ったり。。
五十音写真とは、多分、国語辞典をクラス分国語準備室から借りてきて生徒にわけ、無作為に広げた辞書のページにあった言葉を写真のテーマにして、写真でその言葉を表現する、といった内容だったと思います。
くじびきドローイングみたいなことを写真の授業でもやっていたんですね。
自分でテーマを決めるんじゃなく目をつぶってえいっと開いた辞書のページにあった言葉をお題に撮影。いろいろセッティングしたり、友だちにモデルをさせて再現ショットにしたりした子らもいたような。。
その一枚一枚をスクリーンに映して発表会をして結構盛り上がったこと、だんだん思い出してきました。
自分の中では作家の仕事が上位でこの教える仕事の方は、ただのパートの先生、制作の材料代のため、だなんてうそぶいていたこともありましたが、確実な報酬を得られたのはこの仕事だったし、少しは誰かの役に立ち自分も成長できたのです。高校生たちとの時間は輝いていたし、尊い仕事であったと思います。
写真は、一月の最後の授業が終わった後の私です。
彼らの最後の作品は20才の自分への絵手紙制作でした。
私が2年間保管してから投函することになっています。
黒板に貼ってあるのはくじドロの作品群です。
夏のオリジナルTシャツ制作
最後の授業の日
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この国の芸術
http://tinystory.exblog.jp/29860596/
2024-02-09T18:30:00+09:00
2024-02-09T20:48:16+09:00
2024-02-09T20:48:16+09:00
hisakoinui
読書
書くことでまとまったり広がったりする実感が心地よく、ペースをあげていた先月でしたが、体調を崩したり、学校のことが忙しかったり、大きなドローイングにかかりきりになっていたり、犬のことでいろんなことがあったりしていました。今ではそれらのことをひとつずつそのときに書いておけば良かったと思います。
ドローイングもそうですが文章も、その時にしか書けないものがあるように思います。
それで、きちんと書けるか自信がありませんが、最近読んだ本のことを書いておこうと思います。
この国の芸術〈日本美術史〉を脱帝国主義化する
小田原のどか 山本浩貴編
月曜社 2023
話題の本ということで、読まねばと思って読みました。全830ページ。註も含めて精読しました。とても時間がかかりました。付箋をつけたり、メモアプリに抜書きしたりしながら読みました。
章ごとにテーマがあり、それぞれ研究者の論考やインタビューや対談などでそのテーマを伝える形で編まれていました。ジェンダーのこと、植民地主義のこと、障がい者の表現のこと、天皇についてなどなどです。それらのテーマのひとつひとつを緻密に再検証しているというよりは、それぞれのテーマにおいて帝国主義的な旧来を斬る論客たちの言説や実践が紹介されている、全体としてはコラージュのような本でした。
一貫しているのは、周縁にいてメインストリームじゃないひとたちにスポットを当てていることなのですが、それが、当事者の実感を持ちながら読めてしまうところが面白かったです。
それはそうだもっともだと何度も思いました。頑張っている人たちいるんだなあとも思いました。
ホーツーニェンをちゃんと私も観ましたよ、と思ったり、はまなかあいづ文化連携プロジェクトの紹介のページでは、わたしもそれに関わってましたー!とこころの中で叫んだり、嶋田美子さん偉いなあと感心したり、山崎明子さんの手芸考は私も知ってると思ったり、など具体的な共感ができました。
この本の厚さそのまま、小田原さんや山本さんの思いは熱く、とるものもとりあえず、時代に向かって社会に向かって問いかけたいものがあるんだなと感じました。
それはちょっと一面的ではありませんかと思う箇所もありましたが、そうしたことよりも、何か私自身も今まさにこの時代に生きていると思わせてもらえた本でした。
ただ、浜松の本屋さんにはなく、Amazonでは定価より随分高くて買う気がせずにいたところ、上京の際に寄った丸の内オアゾの丸善には平積みされていたという事実は、すこし残念なことです。タイトルとは裏腹に脱帝国主義じゃ全然ないあり方でしか買えない本なのです。
周縁に生きる私(たち)には届かないものがいつもあるのかも知れません。
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ガーリーフォトとフェミニズム 長島有里枝のこと
http://tinystory.exblog.jp/29832614/
2024-01-26T10:49:00+09:00
2024-01-26T18:55:28+09:00
2024-01-26T18:42:32+09:00
hisakoinui
読書
「僕ら」の「女の子写真」からわたしたちのガーリーフォトへ
長島有里枝 2020 大福書林
本人の修士論文を手直しして編んだ長めの論考でした。
90年代から台頭して来た若い女性写真家への「女の子写真」という呼称は、いつ誰がどんな場所で使い始めたのかから始まって、その言説が繰り返し再生産される写真界の流れと現実などが丁寧な註とともに編まれています。
長島有里枝といえば著名な女性写真家であるのに私は彼女の鮮烈なデビューやその後の活躍をあまり知らないで来ました。
初めて写真展で作品を見たのは数年前いわさきちひろ美術館でのことで、それはお母さんになった写真家長島有里枝作品だったと記憶しています。
いわさきちひろの母性についてわたしは関心を持って来たので長島有里枝の展示内のテキストなどに共感したのだったと思います。私は、いわさきちひろの広く知られているあの淡い水彩画がステレオタイプの母性イメージのアイコンとなっていることと、現実の彼女の母としての人生との乖離に関心があったのですが、長島有里枝もここでいわさきちひろとコラボレーションしようというからにはそんな感覚が彼女にもあるのかなと思った、ように思います。
長島有里枝への私の入り方はそんな感じだったので、90年代のセルフポートレートヌードやその後の木村伊兵衛賞をめぐるさまざまな言説について、ほとんど先入観無しに読めたのは幸いでした。
1988年に第一子、90年に第二子、94年に第三子を出産した私は、80年代後半から90年代後半にかけてのおよそ10年間はおむつおっぱいサービスと保育園の送り迎えと教える仕事とで手一杯で、木村伊兵衛賞に若い女性3人が選ばれたことを、ああそういえばくらいの記憶しかありません。
長島さんがヌードのセルフポートレートでパルコ賞をとった93年ごろ、私はどこまで自分の性について自覚的だったかというと、私はただ普通に産む性の人間のひとりとして子を産み育てていただけです。遅く帰宅する夫には子どもたちの入浴の手伝いをしてもらえないので、子どもたちと一緒に入浴しても、湯上がりの赤ちゃんを受け取ってくれる人がいなくて、全裸で家の中を走り回っていました。自分のことより先に赤ん坊や幼い子らの世話をしなければ湯冷めさせてしまうからです。
そうか私もあの頃は文字通り素裸で毎日を戦っていたけれど、表現の世界でこんなふうに裸になっていた人がいたのかと思いました。
見る性見られる性、撮る人と撮られる人という二項対立への問いが、21歳の長島さんには既にあったのか、それは尋ねたいところです。
それとも、結果として「女の子写真」という言葉で矮小化され周縁に追いやられ見下されていく言説が次々と再生産される中で、自分たちの表現についてさまざまなことを考えるようになったのでしょうか?
わたしはそのどちらでもいいと思って読みました。
最終章でまとめているように、個人的なことは政治的なことなのだというフェミニズムの基本がガーリーフォトにはあり、そこには希望があるわけですから。
あまり知らずに来た女性写真家をめぐるさまざまなことが学習できました。名指しされ何度も登場する著名な男性写真評論家、写真家たちの、知らなかった横顔を知ることができました。きっとわたしたちはもっと怒ってもいいのでしょうが、彼らの持つことのできない世界をわたしたちは持っていることを大切にしたいとも思います。そしてなにより、そんな二項対立から解き放たれたあり方でいたいものです。
頑張っている女たちにはいつもエンパワメントされますが、同時に自分自身の勉強不足を突きつけられもします。
読んでよかった本でした。
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長船恒利写真展『在るもの』
http://tinystory.exblog.jp/29825949/
2024-01-21T16:06:00+09:00
2024-01-22T13:06:33+09:00
2024-01-21T22:26:32+09:00
hisakoinui
みてきた展覧会
Kansan ギャラリー 千代田区東神田
長船恒利さんは、静岡を中心に活動された写真家です。ご本人は写真家と自称することはなかったと聞いていますが膨大なネガが残されており、その全てが日付とカテゴリーで整理されています。私も彼の没後にそれらを拝見したことがありますが、本当に膨大でした。一度、美術手帖に作品が取り上げられたことがあるそうですが、写真集は薄い一冊だけ、この展覧会のタイトルと同じ『在るもの』です。
Kanzan ギャラリーのキュレーターの方が、長船さんの作品を見出して展覧会を企画したのは、若手作家を応援するのがコンセプトの画廊だが、若い作家に学んでほしい気持ちがあるからだそうです。長船さんの写真は本当に素晴らしいからと。
それほどまで、長船さんの作品を高く評価する人が、静岡以外にいることが私には驚きでしたし、そもそも東京にいて、長船さんを見出すことは、たやすいことではないとも思いました。
初めて写真集『在るもの』を拝見した時、私は、正直言って、その良さがわかりませんでした。ただ、静岡にいる私の周囲のアートの皆さんが絶賛するので、そうか、こういう写真が素晴らしい写真なのかと学びのベクトルで拝見したものです。
写真展『在るもの』は、写真集のページ順とほぼ同じ並びで作品展示されていました。
ホワイトキューブに淡々と、しかし精緻に、なにか慎ましさのようなものを携えて、そこにありました。
在る、とはこういうことか、といった風情です。
藤枝の旧市役所、野球場の裏手、成田山の入り口、清水の狐ヶ崎etc、なんでもない風景が、なんでもないように切り取られているのですが、私は初めて、人が言うからではなく、自分の目で長船さんの写真をいいと思いました。藤枝や静岡で見ていた時にはわからなかったのに、今日は、なぜかわかるように感じました。
真ん中に電柱を配する構図とか、広がる電線、重なる樹木、どうしても名前や言葉を読んでしまう看板のいくつも、などなど、何気ない風景の中にそうしたものがいつもあり、求心性がない風景。台形や三角形のような図形を含むモチーフが風景の中に入って不思議なリズムを作っていたりする。
ここに立って4✖️5の大きなカメラを据えて撮ったという立ち位置は、実はかなりしつかりと考えて決めたものであろうはずなのに、それを感じさせないなにげなさには、とても知的なものが感じられます。
いちばん感じたのは、一枚の写真の中に、たくさんのレイヤーがあるということでした。写真の中に映り込むたくさんの風景と意味、それはこの被写体に迫るのだという意思とか絵画的に撮ろうというセンスとか、起こっていることを伝えるジャーナリズムとか、そういうものでは決してないもので成り立っておりそれらが何層にもレイヤーされているように私には見えました。
多面的多層的に見ることができる作品をいい作品というのなら、これはやはりいいと思うし、何より今日は、自分の素直な感覚としていいと思えたのでした。
それは私の見る目とこころの進歩と拡張によるものなのか、
風景を撮ることについてキュレーターのトークを聞いて広がった理解のなせるものか、わかりませんが、自分でわかったと思えたことがなによりでした。
私は長船さんに記録集を作ることの大切さを教えていただいたし、ドローイングについても、いろいろな示唆をいただいてきました。それは言ってみれば先生と生徒のような関係であったかも知れません。後ろを歩く表現者として常に長船さんに学んできたのかも知れないのですが、今日は初めて、長船さんの芸術の世界に対等に向き合えたように思えました。
それは本当によかったことです。
会期は1月28日までです。
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バンビ
http://tinystory.exblog.jp/29824973/
2024-01-21T09:42:00+09:00
2024-01-21T23:30:37+09:00
2024-01-21T10:02:58+09:00
hisakoinui
読書
バンビ(再)
フェリックス ザルテン
高橋健二訳
岩波少年文庫 1990
児童文学を読みたくなるのは、絵を描いたりものを作ったりする気持ちが広がっている時のようです。
ドローイングや刺繍、ドライポイントなどを再開しているこの頃です。
ファンタジーの世界、洗練された美しいリアリズムの世界を旅してみたくなるのだと思います。
バンビは、ハンガリーの作家ザルテンの名作で、自然界の摂理、森の美しさ、生と死のリアリズム、ひとりで生きることの尊さなどを伝えてくれる私のとても好きな作品です。
ディズニーがあのビジュアルを作って商業的なアイコンにしてしまったことは本当に罪深く、オリジナルのバンビをたくさんの人に知ってほしいと以前は思っていました。
でも今はそれはもう良くて、私のバンビが私の中にいればいいなとこの頃は思います。
ジェンダー論的な観点からすれば、バンビは牡鹿であり、その子供時代から壮年までの生きる姿を描く中で、妻の牝鹿への対し方に、ザ男の生き方、的な表現がわずかにあるのですが、書かれた時代背景もあるのかもしれません。複雑な社会の仕組みの中で生きる現代の人間の男女とは違う、自然の中で生き抜く生物としてのオスのあり方なのかとも思いながら、今回はその部分を読みました。
それにしても、バンビの生きた森はどこの森なのか。
ハンガリーの森なのか。
美しい森の風景の中にまだ私は佇んでいます。
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阪神淡路大震災の日
http://tinystory.exblog.jp/29819293/
2024-01-17T23:28:00+09:00
2024-01-18T00:14:03+09:00
2024-01-18T00:14:03+09:00
hisakoinui
こども
もうそんなにと思います。
震災のあった日のことをこのブログに書いたことはあっただろうか。よく覚えていませんが、あの大きな出来事のあったその時自分はどこで何をしていたか、書いておきたい気持ちに今年はなりました。
29年前の今日、地震のニュースに触れたのは、県西部浜松医療センター小児科病棟の待合のスペースででした。そこにテレビがあって速報が流れたのだったと思います。
生後3週間にも満たない三男が発熱し肺炎という診断で入院したその翌日の朝のニュースだったと思います。
新生児は風邪なんて引かないと思っていたのに発熱しかかりつけの小児科医からの紹介であっという間に総合病院入院となり、クベースと呼ばれる病気の赤ちゃんを入れる透明の箱の中に私の三男は行ってしまいました。おっぱいをあげることも抱っこすることもできず、近くで付き添うことも許されず、ただ待合の硬いソファに座っていました。朝まで寝ないでそのソファにいました。
その時に、地震のニュースが流れて来たのでした。
命というものに、とてつもなく敏感になっていました。
ついこの前出産を終えたばかりです。命の大切さを実感するのに出産以上の経験はないという思いを噛み締めたばかりなのに今は、もしもこの子が助からなかったらという不安でいっぱいなのです。生と死の境目に今私の赤ちゃんはいるのだと、今思えば過剰な心配だったのかもしれないのですが、とてつもなく心配でした、不安でした。
三男は無事に回復したけれど、家の下敷きで亡くなった、火災て逃げることができなかったというたくさんの死のニュースを聞き続けたあの日々でした。溢れる母乳を搾乳し冷凍して病院に届けた私のあの祈りの日々は、震災で家族を亡くした人たちの辛く苦しい日々でもあったわけですが、遺族の方々においてはそれは今も続いているのだと思います。
地震にあったわけではないのに、毎年この日が来ると、三男が今日も健康で生きていることに感謝しないではいられません。
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小川国夫のゴッホ(2)
http://tinystory.exblog.jp/29818706/
2024-01-17T13:49:00+09:00
2024-01-17T14:31:35+09:00
2024-01-17T14:31:35+09:00
hisakoinui
読書
小川国夫の本を読んで、それが少し解けたように感じています。
画家になる前のゴッホのことは私の知らないことばかりでした。
牧師の次男として生まれたゴッホはまず父の後を継ぎました。だがさまざまことで牧師を辞め、次は画商になろうとするけれど、それも諦めます。純粋で追求しすぎる性格故なのでしょう。
そして絵の道に進む。
初期作品で有名なのは『馬鈴薯を食べる人々』ですが、私はこの作品しか初期作品を知りませんでした。
こんな暗いトーンのねっとりしたタッチの絵からどうしてあんなに明るい作品にジャンプ出来たのか、知らないで来ました。
でもジャンプではなく必然の流れであり、そこには、牧師や画商としては問題児であるのに絵筆やコンテや鉛筆を持てば
たゆまず研鑽を積むゴッホがいました。
ミレーやドービニーから学び続けるゴッホのことを小川国夫のペンが静かに描いていました
文中の口絵にもミレーの模写のようなコンテデッサンが紹介されています。
アルルに行ってもゴッホの生涯はひと連なりであり、ただ純粋に描いているのです。
ゴッホは人や風景を象徴として捉えていたのではないかと小川国夫は綴っています。
激しい内面があってそれを吐露したのではない、目の前のものをキャンバスに定着させるリアリズムでもない、象徴として対象を見、象徴として絵にしているというのです。
なるほどと思いました。
だからこそ、象徴としてモチーフを選ぼうとするゴーギャンと芸術家の理想郷を作ろうと思ったのでしょうか。
耳切事件について、小川国夫は、本当にゴッホが自分で自分の耳を切ったのかは判然としないと綴っていました。
私はずっと、自分で切ったと知って来たのですが、最近の高校生の作家研究の中でも、切ったのは自分ではないかも知れないという論考があると発表した生徒がいました。
ゴーギャンが切ったとしたら、その時のゴッホの中にあったものは何か、それは、それ故に精神病院に送り込まれるような激しくも狂った心の激情などとは真逆の静かな感情だったのではないか、といったことを小川国夫の文章から感じました。事実を調べて書いた文章ではないので、感じることしかできなかったわけですが。
読みながら、メモアプリに残した文があるので貼っておきます。
なぜあんなにもたくさんの手紙を弟テオに送り続けたのか、ゴッホにとって言葉とは何だったのか書いているところが特に残っています。
以下引用
彼が絵という労働に対して決して意気消沈せず、いつも尊敬を込めてそれを考えているのは私の胸を打つ。彼は敬虔な使徒であった。こうした生き甲斐の中に愛する弟を招き入れ、二人して開拓者になろうと、どれほど強く希望したことか。
彼は崖があることを知っていたが、墜ちるのをさけるにはどうしていいかわからなかった。それはゴッホの病気というよりも、ゴッホを通して極限化されていた人間の実相というべきであろう。
人間を孤独から救うために大きな働きをしているのは言葉なのだろう。言葉はそのための切り札なのに違いない。
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小川国夫のゴッホ(1)
http://tinystory.exblog.jp/29816944/
2024-01-14T23:33:00+09:00
2024-01-15T00:06:23+09:00
2024-01-15T00:06:23+09:00
hisakoinui
読書
ヴァン・ゴッホ
小川国夫
小沢書店 1982
ゴッホについてあちこちで書いたものをまとめたものですが、前半三分のニは、ゴッホの生きた街を旅しながらその時のゴッホについて小川国夫の思いが書かれている、半ば紀行文のような仕立てでした。
小川国夫というと、私の中では郷土の作家という認識です。母校である藤枝東高校の先輩で、著名な作家、藤枝文学館には著作と伝記の展示室がある人、でした。代表作のアポロンの島を、遠い昔に読んだきりで、他はあまり知りませんでした。昨年の夏、藤枝文学館でくじドロワークショップをさせていただいて、改めて小川国夫の展示室をしっかりと鑑賞したとき、この本の存在を知りました。
そうか彼はゴッホのことを書いていたんだとその時は思ったけれど、わざわざAmazonで買おうとまでは思うことはなかったのですが、先日たまたま、古書店八月の鯨で見つけて即買いしました。
こんな再会がいいなと思いつつ読み始めると、面白くてノンストップて読み切りました。
まず小川国夫の文章がとてもよかった。
穏やかで知的でやわらかく、藤枝のあの志太平野に注ぐ光が、文章の中にもあるようでした。
そして何より、ゴッホについての考察が、私がこれまで知って来たゴッホ論とは随分異なり、それもとても興味深く読みました。
小川国夫は、ゴッホの手紙を4年くらい読んでいたそうです。
私もゴッホの手紙は、みすず書房のハードカバーで全巻揃えているのですが、全然手をつけていません。何か、持っているだけでゴッホを自分の中に住まわせているような気になっていたかも知れません。
小川国夫は、故郷ズンデルトから、ゴッホの生涯に寄り添いながら、ハーグ、ロンドン、パリ、ラムズゲート、ボリナージュ、エッテン、ドレンテ、ヌエネン、パリ、と旅します。
もちろん私を含めたくさんの人がゴッホの住んだ土地としてら知って来た、アルル、サン•レミ、オーヴェールへも。
小川国夫に導かれながら、私は絵描きになる前のゴッホのことを詳しく知ることになりました。
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線だったのか
http://tinystory.exblog.jp/29816249/
2024-01-14T06:26:00+09:00
2024-01-14T06:59:19+09:00
2024-01-14T06:59:19+09:00
hisakoinui
制作日記
線を掴むというタイトル、描いてしまう衝動というチラシ内の言葉に惹かれて出かけたのでしたが、拝見し、圧倒されたのは、その三科さんの描く行為とともに、作品化されたその行為の集積物だったのでした。
線そのものは実はあまりよく伝わらなかったけれど、描いた行為とその量が圧倒的に伝わる展示でした。
ドローイングを伝える、ドローイングで伝えるというのはやはりこういう形になるのかなあとなんとなく着地出来ずにいます。
牡蠣の殻が複雑に入り組んだような立体造形の支持体を制作しているときも、作家は線を意識していたのか、あの形と線はどんな関係にあるのか、作家に質問すればよかったと思いますが、答えは多分作家の言葉の中ではなく作品の中にあるのでしょう。
ドローイングしながら無意識の線が描けたときとても嬉しくなります。
私の中の好きな線とはそういうものです。
だから造形すればするほどその無意識からは遠くなる。
でもその無意識の線を掴んだ感覚だけを作品にするのはとても難しいことです。
それはおそらく線という造形要素ひとつでは作品になりにくいからだと思います。
つまり線はいつでも副次的な存在なのです。
三科さんは圧倒的なドローイングとそれを使って形を作ることをされているけれどやはりそうせざるを得なかった、線を描くことよりも作品を作りあげるということが目的となる場合には、そう思います。
それは私の2021年の刺繍ドローイングの大作でも同じです。
もやもやがまだ続いています。
今日も手を動かそうと思います。
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線を掴む
http://tinystory.exblog.jp/29815955/
2024-01-13T15:55:00+09:00
2024-01-13T18:38:55+09:00
2024-01-13T18:38:55+09:00
hisakoinui
みてきた展覧会
三科さんは思春期まで酷いアトピー性皮膚炎に悩まされ、自閉の日々の中で生まれた作品を人知れずためていたのだけれど、美大に進学してから博士課程までその作品とは別の表現を続けていたそうです。
木下さんに出会い、大学で描いていたものは否定されたが、思春期に描いていた作品を認められて、以来、そのドローイングを続け発展させて来たという作家自身のお話をまず聴きました。
その後に木下さんのお話。
最後の瞽女や、ハンセン病の方、今はパーキンソン病の奥様などを鉛筆で濃く緻密に強く描く作品を、私は折に触れて拝見して来ました。見るたびに凄いと圧倒されて来ました。
トークを聞くのは今日が初めてでしたが、とても純粋で嘘のない言葉が次々と登場し、みて来た作品とシンクロしました。目先よりも、大きな芸術を思いとても求道的な方だと改めて思いました。
実は数年前に喜多方の宴席か何かでご一緒したことがあります。金沢まで夜のバスで帰られるという芸術家の姿をその時は見ました。まさか私のことなど覚えていらっしゃるはずはないと思いこちらから名乗りませんでしたが、トークの後に、どこかでお目にかかりましたよねと柔和な笑顔で声をかけていただき、さすが顔を描き続けている作家だと唸りました。
三科さんの作品からは多く学びました。
ドローイングを破ってコラージュすることは私も初期作品でやったことですが、サイズが桁違いでした。
大きさはそれだけで意味を持つと再認識しました。
毎日描くことを旨としていると話されていて、共感して聞きました。描かない日があると取り戻すのに時間がかかるという感覚は、私も常々持つところです。
昨年はくじドロにたくさん時間を使っていてまとまった時間ができたら描こうなど思っているうちに、遠くに行ってしまった何かがあるようにこの頃思います。だから、私も毎日描いていたいと、三科さんのお話を聞きながら思いました。
立体作品は、ドローイングした紙を溶かすか何かして立体にしたのかと思ったらさにあらず、まず不思議な立体を作りその表面にドローイングしたのだそうです。
やむにやまれぬ思いで生み出してしまったものを固めて立体にした方がいいなと私は思います。そうか、それなら私がやれば良いのでしょう。他者の作品から学ぶことはどんなふうにでも起こるものだと思いました。
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クリムトの接吻
http://tinystory.exblog.jp/29814577/
2024-01-11T21:26:00+09:00
2024-01-13T03:35:18+09:00
2024-01-11T21:57:39+09:00
hisakoinui
教える仕事
好きな美術作品を一点選んで、その作品と作者について、作品がある美術館について、その美術館のある街や都市について調べ、妄想でそこまで旅をする、という一連のことを、作品の模写も含めてイラストやコラージュも盛り込んでA 2イラストボードにまとめるというものです。
制作を終えて、今は、作品発表をしています。スクリーンに映して1人ずつ。
なぜその作品だったのか、その作家の人生や他の代表作、旅の思い出などみなそれぞれによく調べよく書きよく描いたというものばかりです。
クリムトの『接吻』は、日本人には、人気の作品のようですがそれを調べた女子生徒がいました。
タイトルに惹かれて調べたということでしたが、調べてみるとクリムトというのはとんでもない奴だということがわかったという内容に発展していきました。愛人が15人もいたらしい、しかも子どもは20人、認知しなかった子もいたらしい、この顔で信じられません、と、ネットから引っ張って来たクリムトの写真が紹介されます。逸脱して来たけど、面白い発表になって来たなと思っていたら、突然彼女は、先生は、接吻したことありますか?と私の方を向いて質問するではありませんか!
え?研究発表中に私に質問?しかもその内容?美術史のことじゃなくて?
たじろぎましたが、生徒たちが全員私を見ているので、これは答えなければなりません。
だいたい、結婚してて子どももいるんだからそんな経験あるに決まってるでしょ、とこころの中で思いながら焦り、
接吻ってキスのことだよね、と言いながら時間を稼ぎ心を落ち着かせ、
ありますよ、としずかに答えました。
するとその女子生徒はなんと、どうでしたか?接吻?
と重ねて質問してくるではありませんか!
ここはもう正直に答えるほかはありません。
キスするとね、相手のことが、もっと好きだなあという感じになります。
と私は答えました。
生徒たちが全員静かになってしまいました。
今年度で今の高校の勤務を終えることが決まっているのですが、最後の最後に、美術室でこんな赤裸々なことを話したんだなあと思います。
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