私の尊敬するアーティスト吉岡まさみさんから、新年の挨拶とともに作品集が届いた。彼のこれまでの作品を振り返る内容だ。
ICテープを使ったドローイングのインスタレーション作品の解説は東京都現代美術館の学芸員の山本雅美さんが書いている。
私は98年に吉岡さんのインスタレーションを手伝わせていただいたご縁でICテープを知り、2002年と2003年の作品で線のひとつの種類としてドローイングとの併用で使用した。
今回の『この場所で』展はその作品を見てくれた静岡アートギャラリーの学芸員の
森谷さんが企画し、オイルバーとICテープのドローイングのインスタレーションという指定だった。その内容は自分の最新作ではないし、吉岡さんの専売特許であるICテープを使うことも気が引けたけれど、あのドローイングが乾さんの普遍性という森谷さんの言葉に背中を押されたかたちで制作した。
こんな言い訳をしなければならない制作をしていいのだろうか。
吉岡さんを良く知る作家やギャラリストの方が私の今回の作品を見ての反応はなべて好意的で、全然別の作品だし、道具として素材として使っているのだから問題ない、ということだった。
それでも私の中にエクスキューズがある。
確かに今回送られてきた作品集を見たり読んだりすると、コンセプトも、表現そのものも私とは全く別のものである。
それなのにエクスキューズが消えないのは、私が、線のひとつの種類としてICテープを使っている、ドローイングに多様な表情を持たせたくて使っている、そのこと自体に問題があるからではないか。私は、ICテープに寄りかかった制作をしてしまった。私は線自体をもっと思考したり感じたりしなければならなかったのだ。
素材に依存して素材に語らせようとするならドローイングである必要はないのだし。
良い仕事をしていこう、と吉岡さんの作品集が思わせてくれた。