猫のマサムネが、筋向かいの家の、庭に続く路地に倒れていたのはもう先週の日曜日、10日前のことです。
恋の季節にしても2日も帰らないのはちょっと心配で、日曜の朝、探しに出かけたのでした。
その時は見つけられず、昼ごろに、おむかいの子が見つけてくれていたのを奥さんが伝えにきてくれました。
駆け寄ると、もう硬く冷たくなっていました。目をあいて、歩いているそのままの姿で横になっていました。外傷はなく、まるで剥製のようなきれいな姿でした。
獣医さんに電話すると、心臓マヒかフィラリアか、殺鼠剤でも食べたか、ということ。
こんなにも突然にぱたっと倒れて死んでしまうなんて。
まだ2歳になる前です。
かわいい仕草のあれこれがよみがえってきます。車庫入れをしていると、エンジンの音をきいて帰ってきて足下にすりよったし、家の中に入れてでかけて帰宅すると、玄関までいつも出迎えてくれました。だからまだ、バックで車を入れていると戻ってくるような気がしてしまうし、鍵を開けると玄関の引き戸の向こうに待っててくれる気がします。夜は居間のサッシの外でにゃあとないて、入れて、と呼んだりするような気がします。
よく、猫派、犬派などといって、猫の自由さやきまぐれが好きだの、犬の忠実さが気に入っているだのといわれるけれど、私にはそういう分類のかんじはありません。
たしかにマサムネは、猫らしく、自由で勝手だったかもしれないけれど、気がいいところも忠実なところもあったなあ。ともに暮らす犬たちとの違いでいえば、猫だから足音をたてずに移動したし、からだがふわっとやわらかだったし、膝に乗ってもしっくりきていた。動きもありかたも美しくて、ぴんと立った長いしっぽが好きでした。しいて猫好きの根拠を問われればそういうところでしょうか。。
それにしても、突然に存在が断たれるって苦しいことですね。
でも、たくさんの楽しい時間をプレゼントしてくれたんだなとも思います。
忙しがってる私に、あの独特の『猫の時間』を伝えてくれて、思わずまったりしたりして。
いつも犬たちとの散歩に勝手についてきて、前になり後ろになり、なかなかの光景を作り出していたとも思う。(それはわたしの密かな自慢でした。)
人間以外の動物には『死』についての認識などないのでしょうから、いかに生きるべきかなど考えもしないで毎日を送っていたのでしょうが、ただ生きてそこにいるだけでこんなにも意味があるんだとつくづく思います。
人間にしても、かりに生きることに悩んでいたとしても、食べたり飲んだり泣いたり笑ったり愛したりしているうちに、ある日突然に死が訪れるたりするのでしょう。
そうであっても、というか、そうであるからこそ、人もどうぶつも生きているというただそれだけで他者をしあわせにしているのかもしれない、マサムネのように。