15日
朝、冷や汁とうりもみ 昼、おそうめん 夜 私たちとおなじおかず
午前5時半起床。今日はお客が少なかろう、仏さんたちのご飯作りも簡単だ、あと少しでお盆を乗り切れる、がんばろうね、と母がいう。「がんばる」ものだったんだね。
牛と馬の背中にお札をのせる。今日は仏たちが買い物に行く日なのだ。
夜、盆棚のお膳を片付けながら、仏になって帰って来た父をもう明日は送るのだと思う。
父との対話は死後もまだできないでいる。
弟も泊まって、ふたりで、いつ終わるとも知れない母の話をきく。眠ったのは午前2時ごろか。
16日 送りだんご カボチャと揚げの煮物
午前5時起床。
なぜあなたはそんなに早起きできるのか。しかし、私も寝てはいられない。
送りだんごの制作。五時起きして上新粉を練るなんて自分じゃないみたいだ。
最後のお膳を供えて、いそいで朝食。その後、盆棚を解体して、野辺送りに行く。野辺送りと言っても、近頃はゴミの処理が厳しいので、昔のように川に流すとか土手で燃すなんてことはない。
あの霊的な空間はただちに崩されてひとまとめになって、各自治体ごとに分別されてゴミとして処分される。それでも、集落ごとの読経や線香、松明の場所などが用意されてはいるが。
終わってしまえばあっけないお盆なのだった。
子どもの頃、この特別な、非日常的な数日間は、毎年当たり前のように訪れていた。あれこれと手伝わされていたが、その非日常をそれなりにわくわくしながら過ごしていたように思い出す。成仏した先祖が、その家にまた戻ってくると信じることが、家を守りつなげて行く儀式なのだということなど理解していなかった。いや、大人になっても、そういう気持ちでお盆の季節に里帰りしていたのではなかった。
父はもういなくて、骨になって墓の下に存在している。お盆に帰って来てまた行ってしまった、と共同幻想することは、もちろん生きているものたちのため。
自分の中の整理できない感情をコトバにしようとすると、どんな単語を使ってもそんなに単純なものではないのだと次々と打ち消したくなる。それでもわき起こってくる気持ちがあり、またそれを打ち消したり保留にしたりする。
表現は叙事的である方がリアルであるように思う。