安部龍太郎著『等伯』上下巻読み終わりました。なんだか大河ドラマのようでした。直木賞受賞作で話題になっていたことは知りませんでしたが、読み終えて、なるほど、と納得。(私は大河ドラマは見ないのですが)
どこまでが事実なのかはわかりませんが、かなり調べて書いているように思いました。だから歴史小説として読んでも面白いのでしょうが、等伯の、絵に対する思いというか業というか、そうした部分にふれているところが興味を引きました。たとえばこんなくだりです。
『花のひとひら葉の一枚まで精巧に描き分けなければならなかった。
等伯は日頃から画帳に草花や木々を描き留めている。数百枚もの絵の中から芙蓉や菊を選んで描いているうちに不思議なことに気付いた。
真にそれぞれの様を写し取ろうとすればする程、花も葉も図案化していくのである。目に見えるものを精巧に写し取るよりも、花や葉の持つ本性を象徴的に描いた方がより本物らしく見える。それは人がものを認識する時に、無意識に記号として識別しているからである』
作者は編集者とともに絵について相当調べたのでしょうか。
モチーフを花から風景にかえれば、今、上野でやっているターナーの描いた風景にそのまま通じるようにも思います。あるいは、すべて表現は突き詰めていけば一度はミニマリズムを通過するのだといったいわゆる現代美術の文法にも。
ほかにはこんなくだりもありました。
『眼高手低という。表現者は古今東西の名作を学んでいるので眼は肥えているが,自分の表現力はなかなかそれに及ばない。それゆえ何度も絶望の淵にたたき落とされ、そこを乗り越えようと懸命に研鑽を積む。
ところが大半のものは、(中略)、、、しかし等伯は愚直なまでの正直さで、ひたすら足らざるところに向かっていく。』
そして利休にこう言われます。『悟ろうとする欲が悟りの邪魔をしとんのや。そこに思い至らんかい』
一貫して、天才絵師はかくのごとき、という読者の期待を裏切ることはなかったのですが、あまりにもその生涯がドラマチックで、だから大河ドラマみたいと思ったのでした。
息子久蔵暗殺説はやはりそうだったのかと描かれていたけれど、狩野派のことが前よりはわかりました。永徳の唐獅子図屏風、檜図、本物を見たくなりました。
京都智積院で等伯の楓図と久蔵の桜図を最近また見ましたが、桜図の前に立つとすごくどきどきするその理由がこの本を読んでちょっとわかった気がしました。
松林図屏風の東京国立博物館での公開は来年一月ということ。見に行こうと思います。