京都国立博物館で開かれている狩野派展をみました。
狩野派展といっても、最高峰の永徳はなくて光信以降探幽まで、いわば、御用絵師たちの系譜といった体です。
いくら元信が優れていたといっても、そして、いくら永徳が天才であったとしても、造形美術に世襲などあるはずはなく、才能を受け継ぐことと既得権を保持し続けることとは違うと、私は狩野派をあまり肯定はしていませんでしたが、永徳の長男、光信には関心があり、出かけたという訳です。
確かに京博がこれだけ宣伝するだけのことはあり、文字通り狩野派あなどるなかれの大展覧会でした。山楽も探幽も大作を間近で見るのは初めてで圧巻でした。
そして、私が見たかった光信はというと、美しいのだけれど、初めはやはりどこか痛々しさを感じてしまいました。
大和絵風の落ち着いた繊細な表現、など作品脇には説明があるけれど、ものすごく努力したのだろうなと思う。大和絵に回帰する時代ではなかったはずだし、父のようには描けなくて苦しんだのではないのか、必死の臨書で技術を磨いたのではないのか、など、想像してしまいます。そして、桜図を見れば、どうしたって長谷川久蔵の方が素晴らしいのです。父長谷川等伯を軽々と越える才能に溢れていた久蔵。永徳にも弟子として寵愛されていた久蔵のあの桜図を光信はやはり意識していたのでしょうか。サラブレッドの自分、在野の久蔵。身分の違い境遇の違いは明らかなのに、自分には久蔵のような才能がない。光信の桜は、どこまでも緻密でまじめで静的でした。ただ、そんな光信の芸術を実際に間近で時間をかけて見てみると、私はなぜか嫌いにはなれず、そればかりか、この静かな美しさもある種の到達であるとわかった気がして、光信に対する見方が私の中で少し変わったように思いました。
狩野光信、見てよかったと思いました。