講師で行っている専門学校の美術史の授業が9月から始まり、授業研究でまた、美術史を復習しています。
もう、6年もこの授業をやっているので、見せたい作品や作家についての知識はしっかり入っているのですが、毎年、学生の方は変わっているので、若い彼らと、新たな思いで作品を見つめられて、たくさん自分の勉強になります。
古典古代から講義していた年もありましたが、ここ3年ほどは、時代と作家を厳選して重点的に見せる語るというスタイルにしています。
初回と次回はルネサンスです。
何度見てもレオナルドはすごいと思います。
卓越した目とそれに追いつく手、という技術は言うまでもなく、芸術で表現する精神、造形芸術でしか表現できない精神、そうした表現が圧倒的で、圧倒的すぎて、涙が出ます。
フラアンジェリコの、あの清澄な空気、清らかなマリアの表現は、深く敬虔な宗教心があってこそなのでしょう。表現の根拠は、個人の表現への欲望ではなく、宗教の高みなのだと。
フィリッポ・リッピのある種きままな表現は、それとは対照的に、神の大きな愛に甘えた、上手い絵描きの尊大な振る舞いに映り、では、その弟子のボッチチェリは、リッピのどこを学んだのか。
有名なボッチチェリのビーナス、薄衣のあの美しい表現に、レオナルドが到達した技巧と精神の統合はあったのか。
そうしたことは、見る側の私たちにも問われるとも思います。
表面的な美しさ以上を感じ理解する感性と教養が必要なのだと。
そして、見る人間からさらに進んで表現する人間としての自分を思うと、もうあまりにも巨匠たちがすごすぎて打ちのめされてしまいます。
フィリッポ・リピの何百倍も甘えた自我の表出でそれを作品と言い張る近代精神って、いったいなんなのかと。
だめだだめだと、胸のなかで渦巻く不全感、それでも、まずは一本の線を引くことからしか始まらないのですけれど。
こうしたことに立ち返らせてくれる美術史の講義でもあり、苦しいけれど学びの場と捉えて進んで行こう、など、生真面目な私がいます。