11月7日
午前7時51分浜松発ひかりに乗り、東京でやまびこに乗り換えて福島へ。
原発事故で全村避難となった飯舘村を訪れる二日間のバスツアーに参加してきました。
企画者は、福島県立博物館のもう三年目の取り組みとなる『はま・なか・あいづ文化連携プロジェクト』の事務局です。アートの力で福島の再生をというコンセプトで、地道にしかし力強く幅広く活動されています。
7月のいわきでのくじ引きドローイングWSをこの『はま・なか・あいづ文化連携プロジェクト』のなかでさせていただいたことから始まって(いえそれ以前に、2011年に喜多方でのグループ展に参加させていただいたご縁から始まって)、浜松と静岡で福島関連の企画展をしていただける運びとなって、それでは、飯舘村を訪れなければ、ということになったのでした。
原発から40キロ以上離れているのに、高濃度の放射能汚染。
おもに風向きと地形の関係でのことのようですが、ここ浜松も浜岡からは40キロです。他人事ではありません。
福島駅から飯舘村まではバスで約一時間程。
紅葉がとても美しい静かな村。
でも、田んぼはすべて除染ではがされて、黒いフレコンパックが積まれています。この黒い袋の中に汚染された土、葉っぱ、そのほかが入っているという訳です。
おびただしい量のフレコンパック。
3段から5段に積まれたならば、グリーンのシートが被せられ、通気口のような円筒状のものを差し込んで、作業はひとまず終了。
でも、この積まれたフレコンパックの行き場はまだ決まっていません。仮置き場、という場所に置かれている。
そして、その仮置き場も、今ではもういっぱいで、仮仮置き場なるところにもフレコンパックが積まれて行く。
汚染土の入ったこれらフレコンパックは、福島第一原発跡に運ばれる計画があるともないとも。。
ひと袋1トン、袋の劣化は5年目から始まるともいわれているこの膨大な量の黒い袋たちをいったいいつ誰がどのようにしてどこへ運ぶのだろう。
なにか圧倒的な絶望にも似た感覚が私を襲いました。
そして何よりも、この地で暮らしていた人たちのことを思わざるを得ません。
ある日突然、もうここには住めませんから出て行ってくださいと言われる理不尽。しかも40キロ以上離れていたのに。。。賠償金で償える問題ではないと思います。飯舘村の美しい自然を見、ぬくもりを感じさせる小学校の校舎を見、日当りの良さそうな高台に建てられた平屋の老人施設を見、それら施設には誰もいない事実、施設だけではなく全ての家に誰も住んでいない風景を見て、こころからそう思いました。
もう4年半以上除染を続けているのに,2年前から線量が下がらないということでした。
2年で半減期を迎える放射性物質が自然に消えただけ、ということなのかもしれません。
村全部の除染は可能なのでしょうか。
商品には出来ないけれど、野菜を育てようとしていらっしゃる方々がいました。避難先の仮説から通いながらです。
土に植えないで安全な水を使っての水耕栽培でした。
そんなにまでして、、と思われても普通かもしれないけれど、野菜づくりはみんなの「生き甲斐」だと話してくださいました。
「生き甲斐」という言葉がこんなに重く響いたことはありません。
飯舘村のみなさんのために私たちができることはなんでしょう?
ツアーの参加者のひとりの方が聞いてくださいました。
一人でも多くの人に、この現実を知ってほしい、という答えでした。
ひとりでも多くの人に私が見たことや感じたことを伝えたい伝えなければと思いました。