くじびきドローイングをしていると、たくさんの方に、この仕組みすごいね楽しいね誰が考えたの?へえあなたなの?!どうしてくじびきでって思ったの?いつ思いついたの?といった質問をされます。
これまで用意していた答えは、『遠州横須賀ちっちゃな文化展で頂いたブースがとてもトラフィックの多いところだったから作品展示よりワークショプだろうと思った、気軽に描けるお絵描きがいいと思った』といったもので、偽りはないのですが、くじびきの根拠には答えられていませんでした。
私自身、くじ引きを思いついた理由がよくわからなかったからです。もちろん、私の完全オリジナルなワークショプであり、だれかのものを引用したりは一切していません。
でも、先日、ある人にくじドロのことをつたえたところ、『商店だね』と言われ、根拠はそれだ!と思いました。
生まれて育った家は祖父の代まで米屋をしていました。
五代目だった私の父は次男坊で、本来つぐはずの兄が戦死したため流れで家業をついだらしく、祖父亡き後はさっさと米屋をやめ、青果仲買やら青果店やらスーパーマーケットやらの多角経営にのりだしました。兄以外の5人はすべて女きょうだい、わがまま育ち世間知らずの末っ子次男坊、商才は無いひとで、呉服屋の次男坊と共同経営したスーパーなどあっけなく破綻しましたが、それはそうとして、問屋さんやら信用金庫の人やら店で働くおばさんたちやらいつも家には人がたくさん来て、私にはにぎやかな子ども時代だったかなと今おもいます。
毎年11月に『おいべっさん』というのがありました。恵比寿講のことで、商売繁盛を願うイベントですが、くじ引きが毎年あり子どもたちの楽しみでした。近所の友だちもおとなたちもみんなうちに集まってくじびきをしました。
商店、くじびき、案外こんなところに根拠があったかもわかりません。
高校時代など、サラリーマンの家の友だちが羨ましかったりしましたが、あの商売やのにぎわいがここにつながったのかと。
描いた人がくじのことばを残す、というルールも、この往来の中で育った、他人任せの発想だったかもしれません。
いちばん最初のワークショップのとき、くじでお題を決める、それだけが決まっていたのですが、ひとりでくじを作りながら、自分のことばだけでは閉じてしまうと思いました。誰かと関わり誰かと広げる、そうした方がいいいと思った根拠に、にぎやかな商店の風景があったかもしれません。
私はひとが好きなようです。
ところで、父の晩年、お父さん商売好きだった?と聞いたことがありました。
学校の先生だったらどうだったかと思ったことはある、という答えでした。
師範学校に行った父は、兄の戦死がなければ、教師になり、親のすすめる適当な家に婿入りするという次男坊の人生が待っていたはずだったということです。
祖父健在の頃は、倉庫の二階で、近所の中学生を集めて数学の塾などやっていたから、案外その思いは強かったのかもしれません。
人の生まれはくじびきのようなものなのか、いや、自分でひいたものではないからそこは運命ということになるのでしょうが、くじびきぐらいの軽さで生きるのが気楽かもしれません。
生前の父を少しも好きではありませんでしたが、随分の時間を隔ててみると、残してもらったものはあったのかなと少しは思います。