6月19日
奈良・當麻寺 宗胤院での個展最終日
ご住職で現代書家の、宮下寛昇氏とのトークがありました。
事前打ち合わせをなんどかお願いしましたが、打ち合わせなどしたらつまらなくなる、ということで、トークの流れすらも決めないままに始まりました。
一応お題は『書の線 美術の線』と決めていて、私はドローイングについて話しはじめてみましたが、やはり熱弁家でキャリアも豊富な宮下さんの独壇場といったトークでした。
アカデミックな書道の団体とは縁を切った!と言い放つ宮下さんは、書道界の異端児を自認しているご様子で、会場に大勢みえたお弟子さんたちにも慕われ尊敬されているようでした。
私は、書道の人たちが乾久子の線をどう感じどう見ているのかに関心がありましたが、宮下さんにそれをトークの中で尋ねると、もっぱら線質の話しになるのでした。
線質というものはひといろではなく、表現に広がり深み緩急を持たせようとするならば、線質の鍛錬的なものが必要なのだという流れになっていき、乾さんも、ますますご精進されればもっともっと豊かな線が描けるようになるでしょう、それが見たいです、といった展開でした。
碩学の宮下さんのお話をたくさんうかがえて大変面白かったのですが、書と美術のあいだには圧倒的な乖離があるのだなとも思いました。
来月に個展を控える宮下さんは、現在、書の制作の佳境なので、普段よりもますます書道家の断面をあらわにされていましたが、お話を総合すると、書とは、極めるものなのだ、ということのようなのです。究めたいということを盛んにおっしゃるのです。
道を究める、という考え方は、美術には無いなあと思います。
究めたいでないとすれば、何なのか、強いて言えば、見つけたい、とか、つかまえたい、とか、生み出したい、でしょうか。何を見つけ、つかまえたいか、もちろんそれはミューズです。
書道、華道、茶道、剣道、柔道、、、『道』と名のつくものは全て究めるものなのだろうとトークをしながら思いました、いかにそれらの『道』に芸術性が備わっていたとしても。
弟子という存在も、究める道があってこそで、師は常に一歩先で究めていなければならないのでしょう。
とはいえ、やはり、書の美は、鍛錬とは異次元の地平にあると私は思うのですが、そうしたことをしっかりトークできたらよかったと思います。書のミューズについて話したかったです。
欧米の人に書道がうけるのは、純粋に線の美が認められているからだと思います。
ただ、同時に、オリエンタリズムもありそうで、そのことにも水を向けてみましたが、私の持って行き方が不十分でした。
トゥオンブリのドローイングの流れの先に私のドローイングがあるのではなく、日本の風土風景の中で生まれた私独自ののドローイングがあるのだと思いたい私には、書というドローイングについて、もっと知ったり感じたりしたいと思いました。究めたいと思い詰めずに知って行きたいです。
会場には、宮下さんのお弟子さんお知り合いが大勢でしたが、私の大学時代の友人たち、静岡のアーティスト、あさのゆきさん、駆けつけてくれてとても嬉しかったです。