71年前に戦争が終わった日。
戦後71年、戦後72年73年と、来年も再来年も、10年後も50年後100年後1000年後、ずっとずっと戦後が続くといいなと思います。
戦後71年の今日のわたしを綴っておこうと思います。
お盆のあいだは実家にいて母の身の回りのことならびにお盆の行事食のお手伝いをしているので今日も朝からそんな雑事、のち、テレビで卓球応援。
それから、中学校で同じ卓球部だったおさななじみ宅に出向いて卓球。(彼女の家には卓球台があるんです。実は私のうちにもありました。でもそれは亡き父が手作りしてくれたもので、バウンドがありえなさすぎてすぐに使わなくなりました)
あいちゃんサーブ、かすみちゃんスマッシュ、チキータのまねっこなどしながら、サーッ!と言い合って楽しい時間をすごしました。
午後は姉の施設に出向き、それから市役所に回って障害者手帳はじめいくつかの更新事務。
自分から出向かなければ権利も支援も次々と失われる福祉行政ではありますが、日本はやはり福祉国家だと思います。
そのあと、親戚と、姉のことでやり取りして、とても辛い気持ちになりました。
とても残念なことですがそれがその人の限界であり、『優生思想』はなくならないものなのだとまた思いました。でも、人が健常でいられることは、生まれて来た人の何%かが障碍を持って生きることの方を担ってくれているからだと思います。くじびきみたいなものだったのです。
そんなとほほの気持ちの時にケータイ電話で呼び出していっしょにお茶してくれるのは高校と大学がいっしょだったともちゃんです。
ともちゃんとはいつも、直前までのとほほを愚痴ることなく、たとえ私がなきべそで会っても何かあったの?なんて彼女に聞かれることもなく、おお、このアップルタルト美味しい!!など言い合って、最後にともちゃんのお姑さんの悪口を笑いながらきいたりしてバイバイします。やさしい人です。
今日は『まほろば』という名の古ーい喫茶店(カフェではない)で一時間程すごしました。
夜は母とふたりでうなぎを食べました。お盆だものね。
母のヘルパーさんはいつもどおり来てくださって、小一時間を3人で賑やかに過ごしました。
『昔のことはよく覚えている人だから、今のうちにたくさん聞いておくといいですよ』といって帰って行ったので、そうだなと改めて思い、71年前の今日について、戦時中のことについて聞いてみました。
今夜の母は驚く程能弁でした。
介護度2の認知症の母ですが、あらゆることを鮮明に覚えている風でした。
母の生家の向いの家では、5人の息子全員が徴兵され、生還したのは2人だったという話しは初めて聞きました。
あんな時代はもうたくさんだよ、と同じことばを繰り返すのは、認知症のせいでは無いかもしれません。
それから、昼間のことで別のいとこと電話で話して今度はものすごく救われました。
思えば、今日は、友だちや親戚とたくさんかかわる平凡なお盆の平和であったかもしれません。
戦後72年の来年も、今日のようにある種他愛の無い、個人のくらしのあれとこれがこんなふうだったよと綴れる世の中であれかしと思います。