二週続けて、アーティストトーク的な場所に出向きました。
先週の日曜日は静岡市の金座ボタニカ、今日は浜松の鴨江アートセンターへ。
奇しくもトークのテーマが似通っていて、自然とか環境の問題におけるアートについて。
タイトルテキストは、前者は「鹿の目線で富士を見る歩く学ぶ」後者は「地域社会におけるアートプロジェクトの果たす役割」で、ボタニカの方は、遠藤和帆さんの個展で作品のモチーフの鹿を通して環境の変化を知らせる作品を補完するようなトーク、アートセンターの方は、熊野平での天竜アートプロジェクトの企画者を囲んでの座談会でした。
二つのトークの場で共通していたのは、トークの場にはアートの関係者以外の人が多くいらっしゃったことです。林業の関係者、整体師、福祉施設職員さんなどなど。
私は、普段はトークの聞く方の場ではあまり発言しないのですが、先週も今週も、どうしても言いたいことが生まれてしまい発言してきました。
例えば、作品を通して社会問題を伝えることの限界。アートは啓蒙運動ではないし、整体の方が理想とするような痛みも違和感もないナチュラルな身体を目指したりもしないし、だからそれは理想のアートの相似形なんかじゃない、とか。
例えば地域社会におけるアートプロジェクトは、大規模な公共事業みたいなものと、ただホワイトキューブでない空間で作品展示してるだけのものとがあるが、天竜アートプロジェクトはそのどちらでもなくて好感が持てた、といったこととか。
私は、一生懸命話すあまり、言葉遣いも突き詰めた感じになり、結局は自分も傷つくといったいつもの着地点だったのですが今回気づいた大きなことがあります。
私の発言に共感してくれたのはアーティストだけだったことです。
というか、私の発言の意味を理解してくれたのは、といってもいいかもしれませんが、私はアーティストとしか共感し会えなかったのです。
会場にいた美術畑ではない人たちには、私が、心の中では泣きながら訴えた、アートはそういうものじゃないんです!違うんです!アートがやれることってそういうことじゃないんです!啓蒙じゃないんです!という叫びは、違う言葉に感じたようでした。
これは問題です。
林業の人たちの問題ではありません。
アートの側の問題です。
アートの言葉が自閉しているということ。アートの世界が閉じている。
隣に座っている人と会話が成立しないアート語。
私はそういう言葉しか喋れないのだろうか。
狭すぎる。
アートが社会に対峙するとしたらまずそこからなのかもしれません。
そんなことを思ったトークの場でした。