映画『ミュンヘン』を観た。
話題作だし、いくつかの映画評でも高い評価だ。
ストーリーは1972年のミュンヘンオリンピックでのテロ事件からスタートする。イスラエルの選手11人がアラブ人に殺害されるという歴史的事実。その後イスラエルは国家権力をもってひとりの男にその報復の任につかせる。映画はその男が仲間とともにテロ実行犯たちを殺していきながらすすむ。あるときはローマある時はアテネ、パリにロンドンそして最後はニューヨーク。様々な都市を舞台にテロによるテロへの報復が繰り広げられる。観ている側はストーリーの傍らで、それぞれの都市の表情の違いを思い切り堪能することにもなる。ブルックリンではハドソン川を挟んで摩天楼を背景に主人公とイスラエルの機密機関のヘッドは『祖国』について語ったりするのだ。
そして同時に国家権力が介在する最高機密機関のすごさも見せつけられる。私なんか多分死ぬまで知ることも関わることもないであろうような人たちや組織。なんでもありなんだ、と思い知らされる。
そしてたぶんスピルバーグの言いたいことの第一は『テロによるテロへの報復』というものの不毛さ、ということだったのだろう。そのせつなさ、むごさは十二分に伝わってきた。主人公は、テロによるテロへの報復を重ねるうちに仲間も失い心身ともに衰弱して行く。そのドラマもまたすごいし映画としての作りもさすが!という感じ。
ただ、見終わって、こういう描き方でいいの?という疑問は残った。アラブ人たちの凄惨なテロの映像で始まり、ラストは『祖国』というコトバを印象づけた後またアラブ人たちによるイスラエル選手殺害のシーンへと戻る。
イスラエルという国家についての疑問符はゼロで良いのか。PLOを野蛮人だと言わせて終わっていいのか。確かにあるシーンでは若いアラブ人活動家との交流と最終的には彼をも殺した主人公の心の動きは表現されていた。しかし、それは、イスラエルとアラブ側との根源的な対立にまで思いを馳せていたもののようには見て取れない。こうした点で私はあの『シンドラーのリスト』を観た後と同種のざらつきを感じてしまった。そして、中東のことを知らない若い人たちがこの映画によってなにかを刷り込まれたとしたらどうなのか。(わたしだって、パレスチナのことは複雑すぎて知ってるとはとてもいえないけど、それでも、、)
さて、机と引き出しおよびその周辺の整理整頓終了。のべ8時間もかかりました。
お気に入りだったのにあきらめていたメガネがふたつ出てきた。やったー。
おばあちゃんが三男にくれたおこづかい、『預かっとくね』といったままなくしちゃったと思ってたけど発見、よかった〜。など。