8月24日
初めて水戸芸術館へ行きました。
これまでなんども『行きたい!』と思うタイミングはあったのに、東京から先の常磐線が精神的に遠くてなかなか行けませんでした。
でも、内藤礼の過去最大規模の展覧会ということで、常磐線に乗りました。
自分の作品を画廊で発表しだした40歳の頃からずっと内藤礼が好きです。
1998年の静岡市のにっせんれん画廊での個展の時、高校時代の美術の先生が来てくださって、好きな作家は?と聞かれ、『内藤礼』と答えました。
その展覧会で私は100号120号というサイズのキャンバスへのペインティング作品をたくさん出していたので先生に即座に『全然違うじゃないか』と言われたことをよく覚えています。
違うのだろうか?
その疑問がずっとありました。
数年前、鎌倉の美術館で内藤礼の展覧会を見ました。少し前にもギャラリー小柳で見ました。
その時も、違うのだろうか?と思いながらみて、違わないように感じました。それでも自信は持てませんでした。自分にないものへの憧れに過ぎないのではないかとも思ったからです。
だから、水戸に行って確かめたかったのです。
違わないことを。
同じであること、ではありません。似ている、でもありません。
違わない、流れている水が違わない、表現の仕方は違っても感覚のどこかが違わない、現在と未来についての思いかたが違わない、掬い取りかたや触りかたが違わない、眼差しの強度が違わない、
そういったことを確かめたかったのです。
そして、こう書いたらおこがましいのかもしれませんが、
違いませんでした。
だから内藤礼は私なんだではなくその反対で、私一人だけでなく何万人もの人の中にある違わなさを伝えているのだとわかりました。
針の穴に絹糸を通す細やかさで触れてくる強い核心、それが私は好きなんだと、確かめました。
あの頃のペインティングにも私はそれを持とうとしていたのだと思います。