交差する 2日目
宿から歩いて会場へ向かう。2キロ弱。google mapに先導されていく京都の小径。小ぶりの家々が隙間なく建っている。ああそうだった京都で勉強することになった次男三男のために借りた家もこんな風景の中にあったと思い出す。
12時前に寺に着くと観光の人たちがもう扉の前にいたりして慌てて開場する。
展示スペースではあるがギャラリーではない法然院講堂は、ギャラリストがいるわけでも、担当の誰かが会場番をしてくれるわけでもないので、展示する人が各自で責任を持って作品管理や展示運営をする。
そして今日は、私がひとりで会場番の日なのです。
ざっと50人ぐらいが来てくれましたが、全員が法然院を観光で訪れた人たちとお見受けしました。
昨日初日は、京都にいるアーティスト城戸みゆきさんやそのお友だち、中西さんの大阪でのお友達らが来てくれて、ギャラリーでの個展と似た雰囲気でしたが、今日はそれとは少し異なりました。
平日であることも手伝って観光客の8割は外国人でした。
会場を一瞥してさっと出ていく人も中にはいましたが、ほとんどの人が作品をじっくり見てくれました。さっと出ていく人はむしろ残り2割の日本人に多くいた印象です。
京都のお寺まわりをしている外国人たちに、私たちのドローイングはどんな風に映ったのでしょう。彼らが抱いて来た京都のイメージに応える内容ではないはずなのに、フランス人もカナダ人もポーランド人も、作品に近づいたり距離をとったり、置いてある資料を読んだり、時には私に、その人にとっても母語ではないらしい英語で話しかけて来たり、立ち去り際に、私と目を合わせ、そっと小声で beautiful と言ってくれたりしました。
こうしたことから私が思ったことは、彼らにとっては日本庭園は異文化でも、わたしたちのドローイングは彼らの側の文化に近く、彼らの暮らしの中にいつもあるものと近いのではないかということです。
日本人観光客にとっては、私たちのドローイングは、意味のわからないものだけれど、海外からわざわざ京都に来る外国人たちは、普段の生活の中にもアートがあるような人たちなのかな、ということです。
それはお金持ちとかそういうことではなくて文化背景のこと、美術の裾野のことになるのかもしれませんが。
そんなことを、ひとりで会場番をしながら考えた2日目でした。
会場を閉めてからは、京阪に乗って大阪に向かい、あべのハルカスで太陽の塔の展覧会を観ました。すごいぞ。太陽の塔。あの時代 にこんなことを考えてそれをかたちにしていたんだ岡本太郎は!などさまざま思いましたがそれはまた別の記事で書けたらと思います。