言葉とは不思議なもので、なにかを紡ぎ出すとそこから次々とイメージが広がっていくのですね。それは普段の私のドローイングにも似ているなあと昨日突然思いました。
一昨日久しぶりにブログを書きました。
新年の挨拶をと思ったけれどその前に昨年の回顧を備忘録として残すことになりました。(まだ書きかけ)
書いた言葉が、明け方の布団の中で反芻され、ああもっとあんなこともこんなことも書いておきたいと思いました。私の脳のどこかが開かれて広がった感じです。
たとえば一月の土田ヒロミさんとそれをめぐる写真家の人たちについて。
彼は、前回記事に書いたように、都美術館に来てくださいましたが、その前に静岡市での講演会のお知らせをくださいました。
震災後の福島を撮り続けた写真集の出版記念を兼ねた、福島を知るレクチャーのような講演会でしたが、詰めかけていたのは、土田さんをリスペクトする写真の関係者の人たちでした。
おそらくは愛機というべきカメラを複数台持ち自慢のレンズもきっとあるだろうとしれる男性たちです。会場をそうした人たちの熱気が包んでいて、そこには写真を撮る男性独特の『体臭』が充満していたような記憶があります。もちろんこれは比喩としての体臭です。でもこの体験が、あるいは2018年一月の記録としては、私の最上位のものかもしれないと、言葉から広がったイメージの世界で思ったのです。
あるいはたとえば三月の高知
くじドロの記録は必須だけれど、帰りに寄った須崎の光、須崎を愛するホゲットさんの眼差し、そうしたものが高知のくじドロとともにありました、これもまた、書いたことばから広がった書きたいことです。
五月の足利にしても、アーティストの仕事としてという観点での記録の言葉を残したつもりなのに、足利の街、石畳み、そしてたくさんの新しい人たちとの出会いこそが、わたしの足利アートクロスであったと思う、そんな記憶そんなイメージが広がります。
書くことも、描くことと同様に、イメージからイメージを広げ、俯瞰してまた構築していく、そんな作業であるのかもしれません。
絵を描くように文章を書くね、
文章を書くように絵を描くね、
ふたつとも言われてみたいなあと、冬の明け方に思ったのでした。