高校生に向けてのショートショートレクチャー。二週間ほどお休みして、今回はフェルメールです。
教科書では原寸大で作品が載せられている、『レースを編む女』です。(ヨーロッパのレースは『編む』のではありませんが和訳するとこうなったのでしょうか。実際彼女は『編んで』はいません)
以下画像とテキストです。
五分美術史 フェルメール
レースを編む女
ヨハネス・フェルメール オランダ・1632~72
油彩 キャンバス/24.5×21cm 1669~70頃 ルーブル美術館 フランス
フェルメールは、美術史の流れの中ではバロック美術に位置する画家です。バロックは、ルネサンスの端正な表現に比べて、色彩や明暗など様々な点でとてもドラマチックな表現が特徴です。この「レースを編む女」においてもその特徴は随所に見られます。手や衣服の中の誇張された明暗、黄色の衣服とブルーのクッションや、赤い糸とグリーンのクロス、などに見られる色彩の強いコントラストなどがそれです。
でも、この作品がドラマチックに感じるとしたら、その一番の根拠は「時間が止まっている感じ」ではありませんか?
フェルメールは、どのようにして、このレース編みの細かい作業の瞬間を表現できたのでしょう。モデルとなった女性に長くこのポーズをとり続けていてと依頼したのでしょうか?それはちょっと無理な気がします。43ページの、『牛乳を注ぐ女』を見ても同じです。
そうなると考えられることはひとつです。カメラで撮影後その写真をもとに制作するという方法です。
フェルメールの生きた17世紀後半にはデジタルはもちろんフィルムカメラもありませんでしたが、カメラの原型であるカメラオブスクラというピンホールカメラ(p90 p123 p143参照)はありました。
一説には、フェルメールは、描きたいモチーフをピンホールカメラで覗き、デッサンせずにそのままキャンバスに投影し、そこから絵作りした、と言われています。作品がどれも小ぶりなのはそれが当時のピンホールカメラの限界のサイズだったことが考えられます。
(実際、初期の大作にみられるデッサン力は今一つで、作品が小さくなってからは狂いがありません。そして窓辺の風景が多いのはカメラに光を取り込む必要があったからではないかと私は思っています)
ところで皆さんは、見て描かないなんて絵描きとして『ずるい』と感じますか?
私は目と手の力だけで絵が描かれていた時代に、当時としては最新のテクノロジーを使って新しい表現を生み出したのだと評価できると思います。
前回のテーマの、『何を』と『どのように』に再び戻れば、フェルメールは『何を』においては100パーセントオリジナルであったわけですし、
写真というものが普通にはなかった時代に、この、まるで時間を止めたような作品を見た人たちは、今の私たちとは異なる感動を持ってフェルメールの絵に接したかもしれません。
テクノロジーは進化を続けています。
お絵かきアプリibisPaintⅹと皆さんの指先はつながっているように私には見えます。指で液晶画面をなぞって生まれた傑作に驚きます。CGの世界ではどこまでがリアルでどこからがバーチャルか時々わからなくなります。パラリンピックの選手はテクノロジーによって身体機能を拡張し、種目によってはオリンピック選手より良い記録を出すそうです。
私たちの世界を広げてくれるものとしてテクノロジーはいつもあります。
フェルメールは350年も前にそのことを絵描きとして実践した人なのだと私は思っています。
(生涯で35点の作品しか残さなかったフェルメール、なぜか日本人には絶大な人気があります。今年初めのフェリメール展ではインターネットで日時指定の予約をして前売りを買いなおかつ並んで入場、会場内も大混雑、立ち止まっての鑑賞禁止、でした。
この2点のほかには、「真珠の耳飾りの少女」や「デルフト眺望」などがあります。フェルメールとテクノロジーを結びつけて鑑賞する人は少数派です)