母のことを書いておきたいなと少し前から思うようになりました。
母は、昨日で88歳、米寿を迎えました。
その2日前に夫と犬を連れて泊まりがけで出かけ、ささやかなお祝いごとをしました。
私の息子である、母の3人の孫たちのうちの一人、長男が横浜から日帰りで来てくれました。
孫たちからのお祝いは加湿器付き空気清浄機で、それは無事にアマゾンから届き、母が1日を過ごす部屋に設えられました。
母には米寿までは生きてほしいと思っていました。
根拠はとてもシンプルで、母の母、つまり私の祖母が88歳まで生きたからです。
だからたみ子さんも88歳までは生きさせてあげなくちゃとムスメは思っていたのです。
母が米寿を迎えられていちばんホッとしているのはおそらく私だと思います。
どこか私は娘としての役割の一つを終えられたようにさえ思い、もう後の時間は、母とはのんびり楽しく過ごそうと、健康のためのあれこれを口やかましく言ったりもせず、好きなように生きていて欲しいと思えて、とても楽になりました。
障害者の姉を、父亡き後も母はひとりでみていましたが、
様々なことがあって高齢の母にはもう無理となってから数年。
姉は施設にいるわけですが、母が一人でそこを訪れることはもうできません。
私が行っても母は姉のことをほとんど口にしなくなりました。
お祝いの日の翌日、私は母を連れて姉を訪ねました。
この頃の姉は、利用者さんの集まるリビングのような部屋に長くいることが出来なくてこの日もベッドで休んでいました。姉は私や母と目を合わすことも、発語することもなかったけれど、母の声かけに、こわばった手を上にあげました。
母は、家にいるときはヘルパーさんにほとんどの家事を依存している高齢のおばあさんなのに、姉に会ったら途端にシャキッとしたお母さんぶりで、私はその姿に目を見張りました。
母は長い時間姉のあちこちに触れたりさすったりしながら声をかけ、やがてしばらく黙り、やにわに、また来るね、と言って私の方を見て、久子、また来ようと言いました。
それから母は、施設の職員さんたちに曲がった腰で深々と頭を下げ、よろしくお願いしますとなんども言って、私たちは施設を辞しました。
要介護度3の母は、この日の姉との対面を今日はもう覚えていないでしょう。