4月18日
朝、犬の散歩をしていたら、ご近所の人に、隣の地区で感染者が四人出たそう、市役所に勤めるその筋から聞いたのだけど、と言われました。
それでニュースをつけたりツイッターを見たりしましたが浜松市で新しい感染者の発表はありません。
結局夜になってもその発表はないのでどういうことかなと一日モヤモヤして終わりました。
SNSでは、浜松市は感染者数を隠蔽しているとか相談数がこれだけあるのに検査数がこんなに少ないとかいろんなことが書かれていました。読むだけでどっと疲れます。でも不安にもなります。
その地区に、アトリエにしている家(かつて夫の両親が住んでいました)があり、そのエリアによくいくスーパー、ドラッグストア、コンビニがあります。
噂、流言飛語、コロナ差別とも言われる排除、いろんなことが渦巻く社会、それが妙に身近になった今日です。
アトリエに行くことになんら問題はないと思っています。良識ある市民でありたいです。
さて、読みさしていた、中谷宇吉郎のエッセイ『科学以前の心』福岡伸一編 河出文庫2013 を読み終えました。
付箋がいっぱいです。
『現代に住む者が、現代を見ることは、至難の技である。しかしいかに困難であっても、ときどきはそれをじっと正視することが必要なのである』昭和16年11月
『原子力の解放が、人類の文化の滅亡を来すか、地上に天国を築くか、それは目前に迫った問題である。そしてそれを決定するものは科学ではなく、人間性である』昭和25年1月
実験室の記憶 というエッセイの中の、記憶の定義がとても素敵で、実験室の記憶における記憶は追憶というものではなく、犬などの記憶と同じような、実験心理学的な記憶であり、実験室もそうした記憶を持つというものでした。だったら、私のアトリエや台所にも記憶はあるだろうと思えて、ではそれはどんな記憶?と想像をめぐらせ楽しくなりました。実験室も、アトリエも台所も、生き物なんだなあと。
そのほかにも、機械の恋とか面白い話がたくさんありました。科学者の言葉、科学者の思考、科学者の思いは、思ったより科学的ではないのでした。というか、科学的と思わされてきたこととは異なるのでした。
科学者には科学のための科学をしている人とそうでない人がおそらくはいて、中谷さんはきっと後の方なのでしょう。そしてそれはどの畑でも言えることなのでしょう。