9月25日
岳温泉を後に再びバスで二本松へ。
東北本線で郡山。そして磐越西線で会津若松。
今日もまた郡山は乗り換えだけの駅だ。
少し前に『福島のトリセツ』という本を買ったのだが、それによると県都である福島市よりも都会であり、福島のシカゴとある。
シカゴとは??
ギャングでもいるのかしら。
郡山の繁華街をふらつく、といったことを今度やってみようと思う。
磐越西線からの景色もまた黄金色の田園風景。
そして磐梯山の緑が深い。
会津若松駅の売店で息子たち3人に福島土産を発送。
3人揃って会うことがもうずっとないし帰省だってしていないのだからと、旅先で突然ハハとなった。なぜだろう。
ままドール、こづゆセット、喜多方ラーメンなど。
福島県立博物館で、和合亮一と土方正志の特別講座トークを聞く。
和合亮一さんは高校の国語の先生をしながらの詩人であるそうですが、話し方がすごく先生っぽかった。いい先生なんだろうな、と思ったけれど。
あわいの話。展示がそうだからですが、遠野物語のあわいの話。
震災で息子を失った母親が、今も息子の気配を感じるというエピソード。これは、新しい遠野物語になるのではないかという土方さんのお話面白かった。
病院に行きなさいとか供養をしなさいということではない。
このお母さんの不幸をファンタジーと呼んではいけないのかもしれないが、気配とはファンタジーだ。このお母さんにはそのあわいの世界がある。
私からの質問に答える形で、和合さんは、新しい遠野物語のような詩作をする使命を感じる、といったことをおっしゃった。
その答えは、でも、私には少し尊大な気がした。
遠野物語は、名もない人たちが耳から口、そしてまた耳へと伝承して生まれた文学なのだ。たくさんの人の時間と暮らしが織り成したものだ。
そうしたものは、一人の人の創作の中で生み出されはしない。そんな風に私は思った。