10月13日
やまびこを降りての東京駅の改札。大きなリュックを預けるコインロッカーの場所を若い駅員さんに尋ねると、預けたはいいが、預けた場所がわからなくなって東海道新幹線に乗れなくなったら一大事という心配を過剰にされる。今の私の外見はそんな感じなんだなぁと逆に感心してしまう。
ロッカーに荷物を預け山手線日比谷線と乗り継いで六本木。
六本木のスプラスアートでさとう陽子展を見る。
さとうさんのことは作家として尊敬している。作品もとても好きだ。昨年の足利では一緒にギャラリートークをしていただいた。
このギャラリーでコンスタントに発表を続けられるということがすでに私とは違う、と以前から思っている。
企画画廊の展示である。
作品を所有してお部屋に飾ってみてはいかがですか?とギャラリーが言っている。もちろん画廊自体も作家も作品も客におもねるものでは決してない。さとうさんの作品はどこまでも純粋で、造形の言葉だけで語りかけてくる。二つを両立させ得る作品の力、作家の力があり、それを企画する画廊の力がある。
さとうさんの作品は今回もとても良かった。制作と旅でお金を使い果たしていなければ一点購入したところだ。
さとうさんと話し、さとうさんの作品に囲まれながら、さっきまでいたギャラリーオフグリッドを思う。
私の展示との圧倒的な違いを思う。
勝ち負けでは無論ない。
言い古された専門用語で言えば、コマーシャルギャラリーとオルタナティブスペースの違いなのだが、それでもない気がする。
むしろ私は、どうしてこんなにも無邪気で無垢な展示ができるのか不思議に感じてしまう。
自分のための作品を作り、そしてそのあとは託していくというあり方。それは私もずっとやってきたやり方なのに、今だけなのか、わからないが、この展示でいいのだろうかと微かだが感じた私がいた。
私は10年目を歩いて変わったのだろうか。
歩きながら考えて、展示しながら考えて、展示が終わっても考えている、六本木のギャラリーにいながらまだ考えている。
まだ旅を続けようと思っている。それも作品だと思っている。
展示は続いているし変わっていくと思っている。
わからなくなって来たけれど、山手線に乗っても地下鉄に乗っても、六本木を歩いても、『10年目を歩いて』いるらしい。