静岡市美術館で『風景画の始まり コローから印象派へ』を見ました。
少し前のわたしならきっとパスしていた展覧会だと思います。なぜなら、少し前のわたしは、新しいということが価値観の上位を占めており、コローも印象派ももう終わった古い美術だと決めつけていたからです。
新しいかどうかという価値基準は確かに重要です。明日の自分、明日の美術、明日の社会、そうしたものを真摯に考えたとき、何が今最も新しいかという観点は欠かせないことです。
加えて、長い間、温故知新という言葉が好きなれず、古いものは自然に、無意識のうちに新しくDNAに組み込まれてゆくのだと思いたい自分がいました。
何がわたしを謙虚にさせたのかといえば、やはり自分自身の経験ということになるのかもしれません。視覚経験、制作の積み重ねエトセトラによって一番新しいものが最上位ではないことを経験的に知ったのです。
印象派はサロン芸術が主流だった時代にあっては最前線の新しい前衛芸術だったわけですが、今から見れば、もう終わった古い芸術です。そんな風に新しいと古いは時間の経過に従ってどんどん変わっていくのだから少し考えれば新しいか否かの価値観は薄っぺらなものなのでした。
コローが古くてそれより新しい印象派がいいのかと見れば、そういうことは全くないとわかる展覧会でした。モネは印象派だから名を馳せたのではなくあの睡蓮の連作、積みわらの連作で追求した光の造形で人の心を動かした、だから今回展示のモネはモネを知りたい人のためには良き資料であり、光とは別にモネの追求したエレメントを見させられるのでした。すなわち、形、空間、量塊という古典的な要素を。
さてコローの描いた風景には、等伯の松林図にも通じるような精神が感じられました。もちろん、コローはあのような簡略の技術で空気と空間を描いてなどはいません。どのように描くかということを超える風景への画家の精神が通じているように感じたのです。
小さなキャンバスの中に緻密に再現される大きな木々とその向こうに抜ける空、湖水、草むら、小さくて素朴な民たち。薄い絵の具で何度も塗り重ねられる木々硬く細い筆で書き込まれてゆく枝。誰かの、例えばヴォルスのドローイングの一片が何層にもレイヤーされているように見えました。
こんなにコローを絶賛してはならないのかもしれませんが、そう思いたい何かがわたしの中に生まれていたことをコローの絵が映し出してくれたとも言えるのだと思います。
わたし自身の日々のドローイングの意味のなさは、コローが素朴に描いた森の風景と繋がっているのではないか。
ダヴィンチが研究のために描き続けていた水のスケッチもまた描くみなもとは同じなのではないのか。
印象派という新しさに乗り遅れた古い画家ではなくてその価値観を超えている画家の王道がコローにあったのでした。気づけてよかったのと、何より美しいものを見ることができてよかったコロー展でした。