見てからもうだいぶ時間が経ってしまいましたが、この展覧会のことを書いておこうと思います。
7月17日、この話題の展覧会を兵庫県立美術館まで見に行きました。
いろんなサイトで展評が繰り広げられているので今更私が書くこともないのですが、やはり、鑑賞とは個人の体験であるのでそのことは書けるように思います.
80年代は、20代の大半を過ごした時間で、人生のいろんなドラマがあって私なりの80年代がまずあります。
まだ全然表現活動などしていなくて、でも、この 関西の80年代展のベースとなっている、アートナウ は二回見ています。
美術手帖を毎月購読してもいたから、見なければと思ったのかもしれませんが、それ以上に、親しい友人が神戸にいて、彼女に会いに行っていたからだと思います。
今回の展覧会を見ると、あの頃の自分が蘇るし、ばかでかいインスタレーション作品など、当時の再現作品からは時代の空気が伝わってきます。
杉山知子の作品はじめ、アートナウの時のものそのままのものありましたが、再現は再現でした。もう少し広々した展示だった記憶があります。
その一方で、当時の再現でない展示もいくつかありました。
作家なりに自己の80年代を振り返ってその振り返りを表現として提示しているものです。
例えば松井智恵。
私は彼女の作品が好きなので、これまでも折に触れてみてきましたが、今回の展示を見て、私は私なりの松井智恵に対する理解の着地点を見ることができました。
彼女の映像の物語の根拠とか、大きなインスタレーションの意味とか。
インスタレーションを見ただけではわからなかったことが、わかった感じがしました。
80年代のあの頃、超少女の一人として括られていた松井智恵だけれど、そのくくり、必要だったの?問い直させてもらえた展示でもありました。
つまり彼女は、そうした世間の評価とは関係なく自分の世界を構築してきていて、自分の中の80年代をきちんとまとめたということだったと思います。
だから、あの頃のものをドーンと見せられるよりもずっとわかりやすく細やかな展示と感じました。
それにしても、『関西の』と冠する根拠はなんでしょう。それはいろんな批評の人が書いていることで、それが正しい解説でしょう。でも、京都市立芸大の卒業生で、80年代も今も活躍している作家たちの同窓会展、と言った方が私にはわかりやすい印象です。
そもそもわざわざ『関西の』と冠するあたりが関西です。東京のとはつけません。だから関西は大きなローカル、そのローカルは面白くてディープで、過剰な自意識があります。
でも松井さん他何人かの方々の展示のように、今に至る必然と、今とつながる要素わかったり、
関西の80年代を見てきた人が理解を深めたり確かめたりすることのための展示だということも伝わって面白かったし、そもそもこの企画自体がその目論見だったのでしょう。
ともあれ、歴史的な時間の中に立つ自分は、過去に戻って、自分の中で物語の時間を作るのでこの頃の自分の制作にもつながる鑑賞となりました。