6月17日 東京国立近代美術館でゲルハルト・リヒターを見ました。
最後にリヒターのオリジナルを観たのは、5年前のデュッセルドルフで、だったと思います。
ドイツの友人と一緒に見ました。
大きいなあということ、ドイツですねえと思ったこと、こんなにもカッコよくて立派な大作を私はとても描けないぞと思ったこと、などが残っています。友人は、どうせ弟子にやらせてるからね的なことを言っていた気がします。
日本で見るリヒターはどうなんだろう。大きな展覧会だという。期待してみました。
そしてその期待は裏切られなかったと思います。
リヒターをしっかりと伝えてくれた展覧会でした。
鏡の作品、写真を使った作品、にじみを使った作品、色面構成だけの作品、デジタル出力の大きな作品、そして有名なビルケナウ。
正しく網羅されていました。そしてビルケナウは圧巻でした。
絵画における描くことについて、絵画における見ることについて、絵画における見られることについて、絵画における戦争、そして美術表現と社会について、すべて正論で向き合って制作してきていて、だからリヒターがもう全てを行なったという人がいるのも不思議はないとも思いました。
でも同時に、それは極めて限定的な意味での『絵画』なのではないかとも思いました。
ヨーロッパの美術史の流れの上での絵画。
だからリヒターはやり切ったかもしれないけれどリヒターがやっていないこともこの地上には果てし無くある。
日本でみたらどうなのか、については、やはり上記のことも思えば、ドイツで見るリヒターがリヒターなのではないかとも思います。
私たちはもっと自然の中で美を見ているから。
常設展にも、リヒターがありました。
そのリヒターは、少し叙情的で、日本的だと思いました。
日本の美術館に常設されてしくはなく、特別展の作品群はやはり私たちをはじき返す。
豊田市美にも巡回するということなので、あの吹き抜けの広いスペースや、高い天井の展示スペースでリヒターはまた違う顔を見せるのか、楽しみに出かけようと思っています。
常設展を見ていると、何点かの作品について、このことはもうリヒターがやったことではないの?と思うようなコンセプトの平面作品がありました。名前はあげませんが、影響を受けたのか、そもそも、リヒターの絵画への問いに普遍性があるのか、どちらか、もしくは両方か、そんなことも思いました。
リヒターからは離れますが、常設展では、新規購入のボナールの作品よかったです。
絵画とは、何かの問題解決のためにあるのではなく、描きましたがどうでしょうか?的な存在ではないのかと思わせてくれたボナールです。
他に目を引いたのは、会田誠と藤田嗣治の戦争画でした。リヒターが問うているのとは別の意味の絵画でした。