DIC川村記念美術館で開催中のカラー・フィールド展のことも書いておきたいと思います。
関西の80年代展ではそれなりに、ドメスティックなものの中にも気づきや学びが多くありました。リヒターのような大巨匠の展示にあっては見ておかなければならない義務のようなものさえあったわけですが、このカラー・フィールド展にはもっと自然な気持ちと、楽しみな気持ち、オリジナルをぜひ見たいという素朴な気持ちで向かいました。
浜松から千葉の佐倉までJR、駅からは美術館の送迎バスに20分揺られて緑の庭園と散歩道が美しい私設美術館が広がっている。訪れるのは3回目です。
展覧会の内容は、タイトルの示す通りの色の海のような作品だった、とは単純には言えず、色という、絵画にとって不可欠な造形要素に対しての思索と技法とその後の表現とが展開されている。
まずステラの作品群を見る。色というキイワードで見たことがなかった。形と空間、シェイプトキャンバス。岡崎乾二郎の原型を私はいつも見てしまうが、色の形と見ればそれは全く違うのだった。
一番見たかったのは、ヘレン・フランケンサーラーの作品だ。
大作だった。ステイニングという技法を間近で見た。にじみに情緒を重ねているのではない。彼女は何か広がり自体を表したかったのではないか。そこには線も必要だが色は不可欠で、色は象徴としてのそれではない。描きたい気持ちがまずあって、描いてみたら描きたいものは広がりとか空気とか風とかそういうものだった、そんな表現だ。それは私の向き合い方と同じ。そんな風に自分の表現に引きつけて見た。彼女自身の体験をキャンバス上に定着させているのが彼女の絵画であり色なのだろうか。体験以上のもの気象とか地上とかそうした言葉で表されるものなのではないのか。そのためには作品のサイズも重要だ。大きくなければならない。長い時間彼女の作品の前にいた。展示されていた言葉も良かった。
モーリスルイスは、画集で見てきたものとはまるで印象が違った。色を重ねて作る作品は、思っていたよりずっとずっとナイーブだった。美しかった。
光を描いている作家がいた。彼の作品のほとんど亜流と思われる日本人作家とその作品が思い出された。ふたつの関係をこれまでは知らなかった。だがこちらが本家ではないかと確信した。
他にも、ああ、この表現、私の知る日本のあの人の作風にそっくり、と思うものがあった。制作年代からいって、60年代のアメリカの作家たちが本家なのは明らかだ。もちろん、グリーンバーグの批評以降のアメリカの抽象を引用して制作したとて、それはそれぞれの作家の話である。
私は自分の無知を残念に思う。何の無知か。それは多くの日本人作家がアメリカの作家たちの作品を参考にしていることを知らなかったことへの無知ではない。
私自身が、このカラーフィールドの時代の作家について、一部しか、そして表面的にしか知らなかった、その無知だ。
ともあれ引用したくなるほどの素晴らしい作品を見ることができた。
そしてその全てが超のつく大作ばかりだった。
圧倒された。
絵画の問題、とりわけ色について、色の果たす役割について、感じそして考えたわけではあるが、それよりも何よりも大きい作品をもっともっと描きたい、作りたいと強く思った。
https://kawamura-museum.dic.co.jp/art/exhibition-past/2022/color-fields/