第50回現代アーティストセンター展ビジュツ行動せよ!
2023年2月28日から3月2日
東京都美術館 地下3階 二階公募企画室
無事に終了しました。
会場の風景です。
6メートルの高さからの長尺のドローイングです。


壁の三作品も私の小品ドローイングです

記録動画のリンクです
展示作品はグランシップでも出したものなのですが、見せる長さが今回の方が長く、そもそも会場自体の空間が異なるので、別の見え方見せ方ができたように思います。
前の記事にも書いたたことですが、このグループ展は、70年代から90年代までの銀座京橋のオルタナティブなアートシーンで発表をしてきた方々が中心となって継続されてきたもので、ある種のドキュメンタリーのような感じがありました。
あの時代に熱い思いでアートに打ち込んできた人たちが今も健在なのだと思わされたとも言えます。
古い新しいの尺度で言えば、新しくはないと言ってもいいかもしれませんが、個々の人たちの活動の時間やエネルギーを思うと、すごいというほかはありません。
意味があるかどうかという観点で言うと、何にとっての意味かで違ってきます。
個々の人の作品にはそれぞれ深い意味があり、その点で私とは違いました。
以下は意味がないことについての私のテキストです 記録集に載せていただきます
作品の前で、ドローイングって何ですか?何を描いているのですか?と問われた時、相手を納得させる言葉を返すことがいつもできない。
作家ならそのための言葉を用意しておこうよとその度に思いつつ、言葉では言えませんというのも一方の事実である。
終わりを決めずに描き始め、描いてみてここだと感じた地点で終わるだけの作品、それが私の作品だ。
つまり、私のドローイング作品には主体的な意味がないのである。
からだよりずっと大きな作品も、小さく細かい作品も、この瞬間を掬ったと感じる作品も、だらだら描いているうちにできてしまった作品も、意味もなく生まれてしまう、生み出してしまう、のである。そしてその時自分の内側でも外側でもないものを表した感覚がある。
作品にはタイトルをつけているが、タイトルの意味するものを描こうと始めることはなく、無題というのでは取り付く島もないから後からつけている。矛盾するようだが、熟慮してつけている。タイトルには意味がある。
言葉にならない言葉を、詩人達が詩の言葉にしているように、乾さんの作品はことばのまわりにあることばにならないことばを線描しているんですねと言われたことがある。生きている限り描き続けているのがあなたの芸術ですと言ってくださった人もいる。
他者の言葉にいつも救われながら、しかし意味は見る人が感じてくれるものだと厚かましく思っていてもいいだろうか。
今回のように広さと高さの十分な空間で、意味のなさをこのように無邪気に開いてみれば、それがはっきりとゆるされたことのように感じられた展示であった。