友だちの和子ちゃんから今年も新茶が届いた。
和子ちゃんは大きな農家の次女として生まれたけれどお姉さんも和子ちゃんもそれぞれの夫も、その農家を継ぐというサイズでは農業をやらなかったので、残されたたくさんの田んぼやみかん畑やお茶畑は人に頼んで生産してもらっているらしい。
だが和子ちゃんは農業が好きらしく、子どもたちの巣立った今は、実家まわりの土地限定ながら90歳を過ぎたお母さんをみながら色々な作物を育てて楽しんでいる。
送ってくれたお茶はだから和子ちゃんのお茶である。
添えられた手紙に、「今年は桜も藤も早かったね、お茶も早かったんだよ。だから人手を頼む手配の関係で摘むのが遅れて味はどうかなあ」とあって思わず笑ってしまう。私も、大切な人たちに送った新茶に添えた手紙に、今年は桜も藤も早かった、お茶も早かった、と書いたから。
温暖化ということなのだろうが、夏も近づく八十八夜に新茶を摘むことがだんだんされなくなるのかもしれない。
お茶が届くと嬉しいから私も送るのだけれど、もちろん私のは買ったお茶である。
両親もよくお茶を買って親戚中に送っていた。朝比奈の茶農家さんに直接買いに行き、一年分はありそうなぐらいの量をそれぞれの家に送っていた。嫁いだ私のところにも毎年届いた。朝比奈というのは、今は藤枝市に合併された岡部町の北部山あいの地域で朝比奈川という清流も有名だ。
古くから良質の茶のとれるところは全国どこへ行っても地形が似ているそうだ。山間の山紫水明の地、清流が流れ、美しい竹林がある。
父が亡くなっても母は一人でお茶を送ることを続けていたが、ここ10年あまりはやれていない。多分もうやれない。
お茶どころ静岡ではあるけれど、静岡のお茶はひといろではなく、浅蒸しと深蒸しがある。朝比奈は浅蒸し、私が住んでいるあたりは深蒸しだ。紅茶や中国茶は発酵させるが日本茶は無発酵、熱処理で酸化酵素の働きを止めるのだが、その熱処理の方法が蒸しである。それが浅いのと深いのがあるというわけだ。深蒸しは緑が濃く味も濃く、これぞお茶という感じがする。淹れ方も多少はアバウトでも大丈夫なので私は知人には深蒸しを送る。
一方浅蒸しはまずお茶の色が薄くて、色を出そうとすると渋くなる。だが味の上品さで言ったら浅蒸しではないかと実は私は思っている。ただおいしく淹れるのがとても難しい。
親たちが送ってくれていた朝比奈のお茶の中に、新茶の茎茶というのがあって、一煎目しか出ないのだけれど本当に美味しかった。浅蒸し新茶の茎茶なんてどうやって手に入れるの?の今である。あの頃はありがたみもわからなかったと今では思う。
朝比奈の茶農家さんがまだあるのか。母に聞いてももうわからない。
和子ちゃんの実家がもうお茶をやっていないようにもうやっていないのかもしれない。
和子ちゃんの浅蒸し茶を大切にいただこうと思う。