名古屋市民ギャラリー矢田で開催中の三科琢美さんの展覧会と木下晋さんとのトークに出かけました。線を掴むというタイトルに惹かれ、ドローイングについて木下さんはどんなお話をするのかにも興味があったからです。
三科さんは思春期まで酷いアトピー性皮膚炎に悩まされ、自閉の日々の中で生まれた作品を人知れずためていたのだけれど、美大に進学してから博士課程までその作品とは別の表現を続けていたそうです。
木下さんに出会い、大学で描いていたものは否定されたが、思春期に描いていた作品を認められて、以来、そのドローイングを続け発展させて来たという作家自身のお話をまず聴きました。
その後に木下さんのお話。
最後の瞽女や、ハンセン病の方、今はパーキンソン病の奥様などを鉛筆で濃く緻密に強く描く作品を、私は折に触れて拝見して来ました。見るたびに凄いと圧倒されて来ました。
トークを聞くのは今日が初めてでしたが、とても純粋で嘘のない言葉が次々と登場し、みて来た作品とシンクロしました。目先よりも、大きな芸術を思いとても求道的な方だと改めて思いました。
実は数年前に喜多方の宴席か何かでご一緒したことがあります。金沢まで夜のバスで帰られるという芸術家の姿をその時は見ました。まさか私のことなど覚えていらっしゃるはずはないと思いこちらから名乗りませんでしたが、トークの後に、どこかでお目にかかりましたよねと柔和な笑顔で声をかけていただき、さすが顔を描き続けている作家だと唸りました。
三科さんの作品からは多く学びました。
ドローイングを破ってコラージュすることは私も初期作品でやったことですが、サイズが桁違いでした。
大きさはそれだけで意味を持つと再認識しました。
毎日描くことを旨としていると話されていて、共感して聞きました。描かない日があると取り戻すのに時間がかかるという感覚は、私も常々持つところです。
昨年はくじドロにたくさん時間を使っていてまとまった時間ができたら描こうなど思っているうちに、遠くに行ってしまった何かがあるようにこの頃思います。だから、私も毎日描いていたいと、三科さんのお話を聞きながら思いました。
立体作品は、ドローイングした紙を溶かすか何かして立体にしたのかと思ったらさにあらず、まず不思議な立体を作りその表面にドローイングしたのだそうです。
やむにやまれぬ思いで生み出してしまったものを固めて立体にした方がいいなと私は思います。そうか、それなら私がやれば良いのでしょう。他者の作品から学ぶことはどんなふうにでも起こるものだと思いました。