昨日見た三科さんの作品のことをまた反芻しています。
線を掴むというタイトル、描いてしまう衝動というチラシ内の言葉に惹かれて出かけたのでしたが、拝見し、圧倒されたのは、その三科さんの描く行為とともに、作品化されたその行為の集積物だったのでした。
線そのものは実はあまりよく伝わらなかったけれど、描いた行為とその量が圧倒的に伝わる展示でした。
ドローイングを伝える、ドローイングで伝えるというのはやはりこういう形になるのかなあとなんとなく着地出来ずにいます。
牡蠣の殻が複雑に入り組んだような立体造形の支持体を制作しているときも、作家は線を意識していたのか、あの形と線はどんな関係にあるのか、作家に質問すればよかったと思いますが、答えは多分作家の言葉の中ではなく作品の中にあるのでしょう。
ドローイングしながら無意識の線が描けたときとても嬉しくなります。
私の中の好きな線とはそういうものです。
だから造形すればするほどその無意識からは遠くなる。
でもその無意識の線を掴んだ感覚だけを作品にするのはとても難しいことです。
それはおそらく線という造形要素ひとつでは作品になりにくいからだと思います。
つまり線はいつでも副次的な存在なのです。
三科さんは圧倒的なドローイングとそれを使って形を作ることをされているけれどやはりそうせざるを得なかった、線を描くことよりも作品を作りあげるということが目的となる場合には、そう思います。
それは私の2021年の刺繍ドローイングの大作でも同じです。
もやもやがまだ続いています。
今日も手を動かそうと思います。