2009年に67才で亡くなった長船恒利さんの写真展に行って来ました。年の瀬に白井先生からご連絡いただき、先生もトークをされるということで日帰りで出かけました。
Kansan ギャラリー 千代田区東神田
長船恒利さんは、静岡を中心に活動された写真家です。ご本人は写真家と自称することはなかったと聞いていますが膨大なネガが残されており、その全てが日付とカテゴリーで整理されています。私も彼の没後にそれらを拝見したことがありますが、本当に膨大でした。一度、美術手帖に作品が取り上げられたことがあるそうですが、写真集は薄い一冊だけ、この展覧会のタイトルと同じ『在るもの』です。
Kanzan ギャラリーのキュレーターの方が、長船さんの作品を見出して展覧会を企画したのは、若手作家を応援するのがコンセプトの画廊だが、若い作家に学んでほしい気持ちがあるからだそうです。長船さんの写真は本当に素晴らしいからと。
それほどまで、長船さんの作品を高く評価する人が、静岡以外にいることが私には驚きでしたし、そもそも東京にいて、長船さんを見出すことは、たやすいことではないとも思いました。
初めて写真集『在るもの』を拝見した時、私は、正直言って、その良さがわかりませんでした。ただ、静岡にいる私の周囲のアートの皆さんが絶賛するので、そうか、こういう写真が素晴らしい写真なのかと学びのベクトルで拝見したものです。
写真展『在るもの』は、写真集のページ順とほぼ同じ並びで作品展示されていました。
ホワイトキューブに淡々と、しかし精緻に、なにか慎ましさのようなものを携えて、そこにありました。
在る、とはこういうことか、といった風情です。
藤枝の旧市役所、野球場の裏手、成田山の入り口、清水の狐ヶ崎etc、なんでもない風景が、なんでもないように切り取られているのですが、私は初めて、人が言うからではなく、自分の目で長船さんの写真をいいと思いました。藤枝や静岡で見ていた時にはわからなかったのに、今日は、なぜかわかるように感じました。
真ん中に電柱を配する構図とか、広がる電線、重なる樹木、どうしても名前や言葉を読んでしまう看板のいくつも、などなど、何気ない風景の中にそうしたものがいつもあり、求心性がない風景。台形や三角形のような図形を含むモチーフが風景の中に入って不思議なリズムを作っていたりする。
ここに立って4✖️5の大きなカメラを据えて撮ったという立ち位置は、実はかなりしつかりと考えて決めたものであろうはずなのに、それを感じさせないなにげなさには、とても知的なものが感じられます。
いちばん感じたのは、一枚の写真の中に、たくさんのレイヤーがあるということでした。写真の中に映り込むたくさんの風景と意味、それはこの被写体に迫るのだという意思とか絵画的に撮ろうというセンスとか、起こっていることを伝えるジャーナリズムとか、そういうものでは決してないもので成り立っておりそれらが何層にもレイヤーされているように私には見えました。
多面的多層的に見ることができる作品をいい作品というのなら、これはやはりいいと思うし、何より今日は、自分の素直な感覚としていいと思えたのでした。
それは私の見る目とこころの進歩と拡張によるものなのか、
風景を撮ることについてキュレーターのトークを聞いて広がった理解のなせるものか、わかりませんが、自分でわかったと思えたことがなによりでした。
私は長船さんに記録集を作ることの大切さを教えていただいたし、ドローイングについても、いろいろな示唆をいただいてきました。それは言ってみれば先生と生徒のような関係であったかも知れません。後ろを歩く表現者として常に長船さんに学んできたのかも知れないのですが、今日は初めて、長船さんの芸術の世界に対等に向き合えたように思えました。
それは本当によかったことです。
会期は1月28日までです。