飼い犬の排泄の感じがなんとなくおかしくて獣医に見てもらっていた。毎年の狂犬病ワクチンやフィラリア予防でお世話になっている近所の獣医さんがいる。
その人の指示に従ってフードを変えて様子を見ていたけれど思わしくない。それでもなんとなくそのままにしていたが、やはりこれはという事態になって来て、別の獣医にみせたらすぐにここへ行くようにという紹介をもらった。
浜松どうぶつ医療センターという総合病院のような大きな施設だった。こんな大きな動物病院があったのかと仰ぎ見た。
どんな疾患かは知らないが、ペットとその飼い主がずらり待合室に並んでいる。
長く待たされてからの診察、それに続くエコーや検査などがあり、その人間並みの設備に目を見張った。数日後に知らされた検査結果とその後の流れで、開腹手術で腫瘍摘出となり、亡くなるリスクの説明も受けた。
私はどこかで犬は犬なんだと思おうとしていた。こんな大がかりで高額な医療を受けるのはおかしい、何もしなければ余命が短いとしてもその時間、最大限に愛すればよいではないか。
それでも獣医師の言うことに全て従ったのは、どうしても愛犬を失いたくないという一点に尽きる。
手術は1度目はうまくいかず再手術となった。その場合の死亡リスクはかなり高いと事前に説明があったがそれも行った。術後には輸血という言葉を聞きドナー犬という存在を初めて知った。
周囲にドナー犬のことを聞いてみると、犬に輸血?という反応がスタンダードだった。当たり前だと思ったがSNSでの発信には多くの閲覧とリポストがあった。ありがたいと思ったが、同時に、ガザ地区の傷ついた子供たちへの輸血の話なら良いが、犬の輸血を募ったことを恥ずかしく思った。
結果として、再手術後、点滴を受けながら10日間の入院を経て、飼い犬のクッキーは生還した。輸血はしなかった。
『面会』も含めて毎日のように通った動物医療センターの待合室は、はじめはとてもシュールな風景に見えた。
心配顔で深刻な様子の人間たちとその膝にいるペットたち。自分のことはさておいて、SF小説のワンシーンのようだった。近未来では人はもう子を産まず、人のクローンかペットと暮らしているのだ。
ところで、よく言われる、犬だって家族だものね、という言い方は、突き詰めれば犬は犬なんだという考えのカテゴリーのように思う。そこにはやはり人間の上位がある。
年明けからずっと続いたクッキーの治療で思ったことは、人間だって動物なんだということだ。
大腸癌に罹ったら、その部位を取り除く。縫合にはリスクが伴うし、細菌に侵されて腹膜炎を起こすこともある。
人間も犬と同じだった。犬も人間と同じというよりは、この言い方がしっくりくる。更に言えば、犬の方が人間よりも生命力がある。大腸癌の術後10日で庭を走り回ることは人間にはできそうもない。
動物たちは瀕死で重篤で死が目前でもその時まで自分で自分を生きるのだろう。
そしてこれはちょっと自分でも思いがけないことだったが、私たちだって動物として生きているんだ、という感覚が生まれた。そしてもっともっと動物として生きたいと思った。