競艇選手のK君が美しい奥さんを伴ってアトリエに来てくれました。郵送美術のことと作品を見たいということで。
K君は長男の古い友だちで、長男同様中学高校大学とボート部に所属し、大学4年のインカレではエイトで長男の大学と決勝レースで競ったという人です。(インカレの結果は長男クルーの敗退)卒業後は立派な銀行に就職し磐石な人生を送るのだなとみていたけれどそれをやめて苦労して競艇選手となりました。
息子の友人たちはたいてい私のことを岳志のお母さんとかおばさんとか呼ぶわけですが、K君は乾さんと呼んでくれます。
家に遊びに来てくれたある時、僕は乾さんの作品が欲しいと言ってくれ、以来私のコレクターさんとなってくれました。聞けば陶器なども集めているということでした。
K君は新居として求めた分譲マンションの中に、作品のためのスペースを用意したそうで、そのA 2くらいの壁のスペースに、私の作品をと思ってくれたとのこと、なんてすごいことでしょう。
ふたりはかなり丁寧に時間をかけてこれまでの多くの作品を見てくれました。
大小の額装作品、キャンバス作品、コラージュ、ドライポイント、桐のタンスの引き出しに重ねてしまっているたくさんの色鉛筆ドローイングなどなど。
スケッチブックに毎日描いているtoday’s pieceの作品群も1ページずつ繰りながら見てくれました。
そして、このスケッチブックの一冊を持つというのもいいなと言ってくれた時、強く実感したことがありました。
その毎日のドローイングが綴られたスケッチブックにあるものは、一枚ずつが私の作品であるのはもちろんだけれどそれ以上に私の時間そのものなんだということです。
存在と時間、などと言ったら某哲学書ですが、私は過去のスケッチブックがさながらタイムカプセルから出てきたもののように感じたのです。
私のその時間をお金を出して所有してもらえるということが起こるとしたらそれは本当に素晴らしい。
結果として、壁に飾るための作品としては額装してあったドローイングを求めてもらったのですが、スケッチブックの1ページずつを他者とともに見た時間は、閉じ込めた自分の時間との再会であったのだと振り返っています。
スケッチブックについては、気に入った2ページを選んで、それも額装するということになりました。
そのページは、2022年のもので、裏には母のことや姉のことを書いた日記のような覚え書きのような手書きのメモが綴られていて、それをも自分のドローイングのように思え、ドローイングという私の時間が2日分だけK君たちのもとに連れて行ってもらうんだなと思いました。
このところ悩んでいる自分のドローイングについての問いに対しての、私のドローイングは私の時間そのものなんだというシンプルな答えがもたらされた、上書きされる私の時間でした。過去のドローイングはタイムカプセルから出てきたものであり、同時にまた誰かの今の時間の中で循環するものにもなっていくわけです。これを幸運と呼ばずになんと呼ぶのでしょう。