5月25日
ジネンコロキウムには行くことにしていて(なぜなら私も9月に対談という光栄に預かりそれでは今回のガチの対談はぜひ聞かなくちゃなので)朝のひかりに乗りました。
せっかく横浜まで行くのですし、まだ見れていない横浜トリエンナーレへ。
テーマは『野草』ということです。キューレーションは中国の人、ふたり。
アジアの人のキューレーションは面白いと思います。
例えばドクメンタは西洋美術の重厚な歴史を下敷きに著名なヨーロッパ人キューレーターが作ってきた歴史があるのだろうけれど(もちろん、最近は違います)、今回のヨコトリは、そうした美術史から全く逸脱していて、魯迅がキイワードなのでした。参加作家も欧米の有名アーティストはいない模様。
iPad10台で展示されるテキストを読まなきゃいけないとか、映像作品100分越えとか、鑑賞者のリテラシーを問うてくるような感じ、わかりやすいハンドアウトもなくて、作家名とキャプションと作品と一生懸命照らし合わせて会場を回りましたが、結構面白かったです
まさかケーテコルビッツの版画が観れるとは思いませんでした。
魯迅との繋がり。メインテーマに沿うものなのに、とてもひっそりした場所に展示されていました。見つけてごらんなさいと試していたのかしら。
志賀理江子は好きな写真家ですが、写真を見せる気がなかったのか、対話を読ませたかったのか、引きの全然ないスペースに展示されていました。
でも緊急図書館はとてもよかった。展覧会の中に図書資料がある企画が好きです。東京都現美の時の大竹伸朗展、2017年のあいトリ、ギャラリー蔵のさしすせそ文庫、など。実は私も去年の大須賀で図書コーナーを設けました。
女はみんな娘になったり母になったりするし、娘として母を見るし、その逆もあるでしょう。
歴史(それは主に男性の)の外側にある強固な普遍性が作品になっていました。
こんな風に投げ出してしまうテキスタイルに共感しました。
こんな風に問いがストレートだとわかりやすいです。問いを立てるということそのものが野草なのか。
ウクライナがテーマの作品からは、ずっと人の唸るような声、田中敦子の作品では鳴り止まないベル、結構うるさい会場で、このある種の『騒音』にもリテラシーや教養が求められました。
絵画作品は、描かれている内容がテーマなのか、どんな風に描くかが重要なのか。少なくとも絵画史の現代を見せているのではなかったわけで。。。
こんな可愛い仮説展示があって、あ、これはくじドロみたい。私にもこれぐらいなら仮説スペース作れるかもなど、つい自分の日常にフィードバック。
私もよくやりますが、ドローイングの長尺ものってみんな考えるんですね。
何がドローイングされているのかが重要になってくるのか、いやそれでは絵画になってしまうし、といろいろ思いました。
10時入場で13時過ぎまでいたのは、それだけちゃんと観たからでしょうが、残り会場はほとんど行けずに、関内のジネンコロキウム会場に向かいました。
もう一回行くのかな。