内田あぐりの大作が秋野不矩美術館で開催中。
週一の水泳レッスンの後に、天龍までクルマで45分走って行って来ました。
今回もハードな練習だったのでこのまま帰宅すると寝てしまいそう、というのと、泳いだ後は身もこころも広がっているから、こんなからだとこころの時に大作を見たい、ということを思いました。
内田あぐりのオリジナルを間近で見たのは数年前、神奈川県美の日本画展だったか、圧巻だと思いました。私よりひと世代上、すごいなぁと思いました。
秋野不矩美術館には、巨大な大展示室とそこに誘う細長く広い廊下のような展示空間、それと2階に絨毯敷きのギャラリースペースがあります。
廊下的スペースには内田あぐり作品とともに秋野不矩作品も展示されており、これは市民サービスということかなと思いました。
この展覧会が中日新聞であれだけ大きく取り上げられても今回訪れた時、観覧者は、私を含めて三組。
ひと組は、高齢のお母さんと60代の娘と思しきふたり。明らかに秋野不矩作品を見に来ています。だからあらこれは秋野不矩じゃないのねという声が聞こえました。もう一人は、展示じゃなく美術館自体を見に来た建築家らしき男性。秋野不矩美術館は藤森照信の設計で有名なので。だから彼にとっては作品より展示空間が関心の的だし、外からも建物自体をたくさん撮影していました。
でも、内田あぐりを見に来た私には、秋野不矩作品がない方がよかった、カテゴリーを揃えてコラボレーション風にしていたけれどやはり無理があったし、並べて鑑賞する意味が分からなかったし、なにより、秋野不矩作品があることで撮影不可になってこの空間の記録ができなかったのが残念でした。
常設展示室がないからこうなったのだと思います。というか美術館のコンセプトが秋野不矩の常設であるのだからこれが最善なのでしょう。
とはいえ、ここには内田あぐりのムサビ大学院修了作品や自分の娘を描いた小品、ドローイングなどが展示されており、ここで彼女の原点を伝えようとしていることが伝わりました。良い展示でした。
大展示室では、内田あぐりの旧作と、今回のために描かれた新作の構成。こちらが本命。
丸木美術館での作品。
丸木美術館では異なる見方がされたことでしょう。
福島での作品。
その時の高校生の自筆コメントが展示として添えられていました。
今回の新作。
阿多古和紙は、この地域の伝統紙漉きで作られる希少な紙ですが、それを使ったドローイング。
きっと企画者からの提案と話し合いがあったのでしょう。
天竜川をイメージさせる細長い作品3点も同じことを感じました。川という字とも見れます。
メインは平面を立体的にしつらえる作品。
この空間をどう強く構成するかは内田さんの提案か、企画者か。
空間とその意味が秋野不矩美術館なので、難しい。作家が展覧会にどう向き合ったのかが垣間見えます。
ところで、大作はどれも近くで見るとコラージュになっています。接合部分に整合しない部分があり、描いた後で作品を裁断して構成しています。
このことをどう捉えるかはかなり重要なことではないかと私は思います。つい自分の制作に引き付けて見ます。
当然ながら内田あぐりは、絵画を作っているわけで、そこが私とは違うのでした。
だから、キャプションに使われるドローイングという言葉も、下絵という意味での使用なのだとわかります。
二階ギャラリーでは、子どもたちとのワークショップ成果発表展。
できた作品とワークショップ中の記録写真の展示でした。
指導中の内田さんの全身が写った写真いくつかありこのからだがあの大作を、と見てしまう私がいました。コラージュして作品を大きくする手法の根拠もこの身体にあるように感じました。ワークショップ後のコメントでは、子どもたちが何を描いたのかにフォーカスしておられました。どう描いたとか、描いているプロセスについてではなく。
絵描きさんなんだなあとますます実感しました。
私には遠く及ばぬ大作家であり、同時に私とは全く違う制作。あの大展示室の美術館ぽくない空間で内田あぐりを見た、それはとてもよかったことです。そして私も大きな作品が作りたいと思いました。自分のからだ全部で。