セッションは二回、午後4時からと午後7時から行いました。
4時の方では、草むらの上に紙を置いて描くなんて初体験で、やはりオイルバーの手ごたえが無い。描いたあとから左手で線をこすっていく事も出来ない。線を恣意的に作っていけない。これを受け入れるのに少し時間がかかりました。でも、視界の中に否応なく入ってくる植物のやわらかさに救われて、これまでのように、あらがうように線をひく事をしなくてもいいように急に思えてきました。
そして、途中、あいの手のようにきこえる羊の声。(キャンプ場の斜面にマンクス種の黒羊が放牧されているのです)イダキ竹笛に加え、これが本当に絶妙でした。
七時の方では、時間が近づいても誰も来ないので、観客なしでやるのかな、と覚悟した頃、ぞろぞろと村のおばさんたちが来てくれました。15人くらいかな。
この素朴な鑑賞者たちは、芸術家集団の意味不明な行いにたいして、わかった顔をして訳知り顔で黙ってすわって見ているという事が全くない、素晴らしい人たちでした。
二人の奏者にもにじり寄っていましたが、私のところでは描いている私に肉薄し(暗いのでよく見えないからです)持っている懐中電灯で私や私の手元を照らし、時には『こんなに手が青くなっちゃって』などと言いながら、体温も伝わりそうな距離で私の線を共同体験してくれたのでした。
私は、はじめ、山のおばさんたちはすごいなあ、遠慮という言葉を知らないの?と思っていたけれど、途中から、彼女たちの存在が私の制作に温度をもたらしている事をはっきりと自覚できました。
ひとりでいる時間を愛し、その時間の中でこそ成長できると思う事がよくありますが、作家は決して孤独の中では描き続けられない、という真実もまた存在するであろう事にふと触れられた気がしました。他者の、『あなたの作品が見たい』という素朴な気持ちがあってこそ、という。(それは、4時のときに、遠くから私の制作を見に来てくれた友だちたちに対しても思った事でしたが。)
さて終了後の彼女たちの言葉もふるっていました。
『うちの孫もわからない線を描くけどね、あんまりかわらんね」
『いや、うちの孫の方がうまいよ』
『あんたはあいまには絵も描くの?』など。
現代美術は難しくてわかりません、というおきまりのコトバでピリオドを打たれるより何倍も嬉しい言葉だったとおもいます。