岡崎さんの車であちこち案内してもらう。
震災の時に住んでいた垂水区のアパート。
あの朝はここに電話したんだなと思う。
『だいじょうぶ、だいじょうぶ。静岡県人だもん、ついに来た!東海地震!ってなもんだよ』という明るい声を覚えている。
チャコがくるからと思って布団一式新しく買っといたよ。といって迎えてくれた御影のアパートは見つからなかった。震災で多くが建て替えられ、立派なマンションに変わったりしているそうだ。
六甲の旧外大あとへもいく。きれいな女子校に変わっていた。インドから帰国後いっさいの家財道具を処分して住んでいた共同炊事場共同トイレ共同風呂のアパートもみつからなかった。あの部屋でどう自分が驚いて立ち、どう彼女が笑っていたかを今でも鮮やかに再現できる。あのころの彼女のあの自由さが私にはまぶしくてならなかった。
神戸での最後の職場になったポートアイランドの美術館はもう閉館していた。
震災前よりもはるかに近代化した神戸。この近未来の現代建築の空間に彼女はいたんだなと思う。
明石焼が食べたいな、と、リクエストしたけれど、三ノ宮センター街の夜は早く、岡崎さんおすすめのお店は閉まったところ。ふたりでうどんを食べる。
私の知らない神戸での彼女を知って(そして、それがある時期世間的な意味で幸せいっぱいのものでなかったとしても)、わたしはなんだかほっとした。彼女がまぎれもなくこの町で生き、泣いたり笑ったり食べたり飲んだりしていたのだという事実。それだけで十分な何かがある。
別れ際、『いろいろ思ってるみたいやけど、あのコはけっこう幸せやったんちゃう?』と岡崎さんが言ってくれた。
さてあしたは神戸と大阪のアートシーンをあるく。(歯が痛いな)