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by hisakoinui
| 2024-03-28 15:02
| 展覧会のお知らせ
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2024年3月11日 快晴 13年目の朝だ。 午前9時30分会津若松発郡山行きの磐越西線に乗る。 昨日思いがけず決まったのだったが、トークイベントに登壇された写真家の港千尋さんとご一緒している。 車窓からの磐梯山が美しい。磐越西線は途中から磐梯山をぐるっとまわりながら運行しているということを隣の席のおじさんが教えてくれる。前歯のないおじさんはサンドイッチを食べながら焼酎を飲んでいた。 郡山からは新幹線で仙台、仙台から常磐線の各駅停車、原ノ町で途中下車してまた常磐線でいわき、そして特急で東京、新幹線で浜松という旅程をふわっと思っていたけれど、原ノ町で少し長めに時間をとれるようなスケジュールを考える。 私は昨晩きちんと眠れていないことを小さく悔いていた。体力持久力はあるけれど疲れや緊張ですぐにおなかをこわすのが私のからだなので、間遠なダイヤの常磐線に乗車中におなかが痛くなって、途中下車の事態にでもなったらと心配になった。朝のコーヒーは我慢し、昼にはきつねうどんのお揚げを半分残して、さらにおなかの薬を飲んで常磐線に乗る。 常磐線の車内は、ほどほどの乗車率でごく普通の車内風景。乗客たちは今日が13年目だということを意識しているのだろうか。 新地駅を通る。 3年前の10年目を歩く旅を思い出す。3年前の午後2時46分には、緊急停車した車内で乗客全員で黙祷をしたのだったが、それはこの新地のあたりだった。あの防災スピーカーはどこにあったのかと窓からの風景に目を凝らしたが見つけられなかった。海に向かって広がる土地が続いている。 原ノ町に着く。 仙台~いわき間ではいちばん大きな駅だ。相馬野馬追いの装束の展示が駅構内にある。駅近くにレンタカー会社があるとスマホでわかり郡山~仙台間の新幹線車内で港さんが事前予約してくださってある。 レンタカーの運転席の方に私が座らせてもらった。 自分でハンドルを握って南相馬を車で走るのだ。嬉しい。3年前には、農家民宿翠の里のご主人の運転する車の助手席から南相馬の風景を見せていただいたが、その時とは違う実感がある。南相馬の広さ、海までの距離、防潮堤の長さ、作り始めた松林のサイズ、そうしたものを運転しながら自分の目とからだで確かめている実感だ。 港さんの極めて的確なナビゲーションでかしまの一本松、防潮堤、山田神社とまわる。 一本松はもうなかったが周囲にはたくさんの松の植樹があった。 広めの駐車場があり車が何台か停まっている。今日は3月11日。それを感じた初めての光景だ。今日であるからここに訪れている人たちがいる。 防潮堤は立派だった。花束を持つ青年が私たちの前を行き防潮堤に登って行った。その花束は誰のためのものなのか、友だちなのか家族なのかあるいは恋人か。やがてその青年の周囲に人が集まって来た。遠目で正確ではないがみな若い人のように見えた。 午後2時46分はこの防潮堤で迎えた。もうそろそろ黙祷をと思ったその少し後に、低く唸るようなサイレンがなった。 海に向かって頭を下げて黙祷。 ただサイレンを聴いていたのか祈っていたのか花束の青年のことを考えていたのかその全てであったのかわからないままに一分間が過ぎた。 防潮堤から見た海の色は濃い青で今日の良く晴れた青空との美しい対比を作っていた。波は穏やかだった。海岸にはたくさんのテトラポットがあった。 テトラポット。 13年前、大津波はテトラポットをもさらって陸まで襲いかかり、波にさらわれたテトラポットが被害を大きくしたこと、全て流された後の南相馬の広がる地で新しいテトラポットが作られていたこと、そのテトラポットひとつの値段とその総額の莫大さ、そうしたことを港さんが話してくださる。テトラポットをその観点で見たことがなかった。復興に投じられた予算とその使途について具体的に私は何も知らなかった。さらに、港さんたちが震災後まもないタイミングから始まって何度もこの地を訪ねていることを改めて知った。私は、震災直後から始められた福島県博の活動である『はまなかあいづ文化連携プロジェクト』のことの何を知ってきたのだろう。知ってきたつもりでいた。でも何も知らなかったのかもしれない。 黙祷後、防潮堤から海を見つめながら、私は、なんとなく自分の不遜を思っていた。今日ここに来ている人たちと、自分との間にある埋められない距離を思っていた。 海岸線沿いに立ついくつもの風力発電の巨大な風車が、さらに現実味を薄めてもいたが、私は、なんの用意もなくこの場にいることを申し訳ないように思った。 花束を持っていないということではない。ただここに来さえすればよいと思っていた自分を不遜に思ったのだ。 13年前、震災の年の夏に一度だけ私は被災地ボランティアを経験した。岩手県大槌町の避難所での炊き出しのお手伝いである。三男のインターハイ応援の合間に1日だけ遠野からのボランティアバスに乗って参加したのだったが、山間部から海に向かって下るバスの車窓から見た大槌町の津波被害の有り様が本当に凄まじかった。その時私はカメラを持っていたけれど、その風景に向かってシャッターを切ることができなかった。申し訳ないという気持ちに支配されていた。 その時と似た感覚が今度も生まれたのだった。私はこんなに鈍感でいいのだろうかと。 それで私は、港さんに質問をした。 正確な言葉が再現できないが、福島の人たちへの遠慮のような思いを持つことはありませんか、と質問した。震災直後から被災地で写真を撮ったり調査をしたりすることへのエクスキューズはなかったか、という意味で尋ねた。 すると港さんは、躊躇なくきっぱりとした口調で、それはないとおっしゃった。強い目の光も感じた。 そこには写真家としてのプロフェッショナルな姿勢と、広く世界でフィールドワークによる調査研究を重ねて来た人の経験の層が見えた。あるいはそこに使命というものもあったのかもしれないが、倫理観とは別のカテゴリーで生まれる能動的な何かがあるとも感じた。私は救われる思いとなった。同時に私自身の眼差しの揺らぎや不確かを自覚することができた。 さらに言えば、誰もがみな別々の目で世界を見ているのだということまでが私に迫り、それが私を熱くし、ひとりでなくここにいられたことの幸運に感謝した。その方が私はより私自身であれたから。 昨日、猪苗代で再会した平山さんの言葉を聞いてから、ずっと私は揺らいでいたけれど、私は私の目で見ればよいしそれしかできないのだと思った。でもそのためには、もっときちんと自分を整えて準備してここにいなければならなかったとも思った。 山田神社では、今日のための神事が行われていたが、それを司る神主さんは、なんと、福島県立博物館の学芸員であった森さんだった。農作物の供物で飾られる祭壇に榊を手向け、ニ礼ニ拍のお参りをする。これをさせてもらえてよかった、ここに来てよかったと思った。 13年目という数字について港さんが13回忌とつなげて話してくださる。そうか13はそんな数字でもあるのだと思いながら山田神社から海を見下ろした。港さんが撮ってくださった。 レンタカーを返してまた常磐線普通列車に乗っていわきまで。いわきからは特急に乗ったのでもう安心。予定通り東京駅から新幹線に乗り、おなかをこわすことなく帰宅。 13年目の磐梯山は美しく、相馬の海と空は青かった。私はまた、福島を歩くだろう。何年目であれまた歩くと思う。 #
by hisakoinui
| 2024-03-22 13:00
| 旅の記録
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2024年3月10日 はじまりの美術館から赤間さんの車で会津若松へ。 福島県立博物館に着くと、ロビーには『いいたてミュージアム』の展示。これが見たくてここまで来た。 2011年、東京電力福島第一原発のメルトダウンによる放射能汚染は風向きの影響で原発から40キロ以上離れていた飯舘村にも広がって全村避難の村となってしまった。 その飯舘村の生活の記憶を残し伝える展示がいいたてミュージアムだ。 ある日突然それまでの生活全てをおいて家を出ることになった村民たちに、その人にとって大切なもの、歴史的なもの、古いもの、についての話を聞き、その『もの』を預かってケースに入れて『作品』とする。そしてその展示パッケージを全国で展示する。ケースに入っているのは、美術品ではなく、全村避難によってもう戻れなくなった飯舘村の人たちの日常とその記憶である。 東日本大震災が起こった時、日本中の人全員が、毎日を大切に生きようと思ったと私は思う。少なくとも私はそう思った。だからなんでもない毎日の暮らしのかけがえのなさを伝えるいいたてミュージアムを初めて見たときこの展示はすごいと思った。そして日常をケースに入れた根拠が、原発事故であるのだから、強く政治的な展示でもあると思った。 今日いいたてミュージアムを数年ぶりで見ると、初めて見たときよりもその強度が増していたように感じた。 13時30分から、博物館内の『なんだべや』で開かれた港千尋さんのトークは、そうした私の感想をわかりやすく着地させてくれるものだった。 『いいたてミュージアム』は、未来の記憶なのだということ。ケースの中のものたちは、ただそこにあるのではなく、未来を待っているのだということ。そう港さんは言った。 実は私はその未来に対しては少し斜めだった。 近未来では、原発事故が度重なったり、あるいは核戦争が起こってしまう。そんなこの地球でいいたてミュージアムのケースが発見される。中にあるのは芸術作品ではなく汚染前の暮らしを伝える日常のものなのに、それは数十億のプライスのつく芸術品よりもはるかに強く人々の心を打つ、そんなSF小説のアイテムのように見えてしまってもいたのだ。 だから、時間を経て、再び見るいいたてミュージアムは、ますます私には重く苦しいものに感じられた。(だからこそ意味の強度は増し、時と共に育つ展示であることも再確認したのだけれど。) だが港さんが言った未来の記憶の未来は果たしてそんな未来なのか。それもあるかもしれない、だがそうではないそれだけではない未来と言ったように私は感じた。あるいは、未来のひとつひとつを見る人に委ねるような、そんな信じ得る未来なのか、そうも思った。 最後にはニュルンベルク博物館の展示品を例に、いいたてミュージアムというものがどれだけユニバーサルなものであるかのお話でまとめてくださり、何かを確かめるように福島に来て福島を思っていただけの私にとっては、こじ開けられる思いだった。いいたてミュージアムの意味や価値は、こうやって広い知見と言葉を持つ人に後ろ盾られる。作品と批評との理想的な関係がここにあり、それがなかんずく、311がテーマであることは、重要なことに思われた。 会場の『なんだべや』は、博物館ロビーに隣接するオープンスペースで、畳とこたつがインスタレーションされた明るい部屋だ。港さんはこたつスペースでお話をされ私たちは畳ブースでそれを聞いたのだが、このなんだべや自体が、いいたてミュージアムの大きなケースなのかなと、トークの途中からそんな感覚になった。見るもの見られるものが幾重にも入れ子の状態を作っていく様は、ここが博物館であるから生まれているのか。 いいたてミュージアムの展示物には、さまざまなものがあったのだが、懐かしい、犬のたいようの写真も展示されていた。 この『作品』は、2016年、静岡へのいいたてミュージアム巡回展でも展示されたのだが、静岡での展示は、私のくじびきドローイングとの連関企画でなされていた。 いいたてミュージアムを見ての言葉を、くじドロのくじの言葉として使用し、その言葉を、いいたてミュージアムを知らない人が絵にするという趣向だった。 その時の言葉には「いいたてむらの神様」「かけがえのない日常」「いつもの朝ごはん」などがあって、いいたてミュージアムが放つメッセージをまっすぐ感じて作られたくじの言葉が多かった。それらの言葉のくじを引いて描かれた絵のあれこれが思い起こされる。 そしてこの時『犬のたいよう』という言葉もくじの言葉として残されたのだった。 たいようは、避難所には連れて行ってもらえなかった飼い犬で、住民パトロールの人たちが毎日安否確認をしていたが、ある時そのたいようの住む段ボールに猫も2匹一緒にいたんです、という写真が、いいたてミュージアムの作品のひとつとなったのだ。 2016年の静岡での『いいたてミュージアム』の展示でその『作品』をみて、「犬のたいよう」という言葉をくじびきの箱に残した人がいた。 そして、少しの時間を経て、『いいたてミュージアム』を知らない人がくじドロワークショップに参加してくじを引いて描いたものは、立派な土佐犬の絵だった。 心もとなげなたいようの写真からは想像もつかないまわしまでつけた立派な土佐犬。 たいようを思えばせつないが、たいようよかったねとそのとき私は思ったものだ。 くじドロを介することで、『いいたてミュージアム』は、原発事故という大きくて黒い必然から、小さな偶然に巡り合い、避難所に連れて行ってもらえなかった犬のたいようは立派な土佐犬として描かれて次の偶然に繋げられた。そんなふうに私は思っている。 かすかであってもここに希望と呼ぶべきものが生まれたと言ったら大袈裟だろうか。 まとまらない感想に広がっていく。そして、それがいいのだと思う。いいたてミュージアムは、時間を経るにつれ伝える重さが増え、伝える世界が広がるものなのだと思う。 芸術作品でないものが展示物になることの意味を展示制度を使って示すことの新しさは、翻って展示制度の古さを暴いてしまうけれど、それを古いと言って否定することもなく、ただ時間と平行に在るだけのいいたてミュージアムなのだ。港さんの言葉を借りてよければ、未来の誰かや何かを待ちながら。 それはつまり生きている作品、生きている展示ということなのだろう。 最近地元で通い詰めている天地耕作の展示とつい比べてしまった。静岡県立美術館で現在開催中の大規模展示、『天地耕作 初源への道行 』である。 天地耕作の完璧な図録と完璧な記録とその展示、名だたる文化人を招いて企画する完璧なトークイベントとパフォーマンスは、しかし、私には天地耕作のお葬式のように思える。みんなが弔辞を読んでいる。いみじくも、川田都樹子さんが先週のトークでその言葉、お葬式 を使っていた。 それに比べて、失われた日常と記憶を展示しているのにいいたてミュージアムはなにも弔わないと私は思った。 『いいたてミュージアム』のトークイベントが終わると、懐かしい人たちから声をかけていただいた。浪江からは馬場さんが来ていた。10年目を歩く旅で小林さんに紹介していただき、二本松の岳温泉でお話を聞いた馬場さん。あの時は農作物を作れなくなった浪江町の復興のために栽培を始めたトルコギキョウの花束をいただいたのだった。 福島大学の渡邊先生もいらっしゃった。2016年、私が実行委員長となって浜松の鴨江アートセンターで綿引展子さんのお手伝いをしたTEGAMI展。あの作品はその後渡邊先生に託されたのだが、現在のお話をお聞きすることができた。ハンブルグにいる綿引さんに連絡しなければ。 喜多方からは五十嵐健太さん。2011年の漆の芸術祭で知り合った彼は今は木こりさんだとのこと。13年前、私は喜多方のスーパー、リオンドールで買ってしまった1リットルのヨーグルトを持て余し五十嵐さんに押し付けて浜松に帰ったらしい。 さて、会津に行けば必ず夕食に誘ってくださる県博の方々。嬉しい限りだ。きっと超多忙なのに、遠くから来たのだからといつも大ウェルカムだ。 今夜はそうそうたる方々の中に私も入れていただいて、美味しい会津のお酒とお料理を楽しんだ。喜多方から佐藤弥右エ門さんもみえていた。 宴の後、宿に戻る道すがらの信号待ちで、私の明日の予定『13年目の3月11日に常磐線に乗って海を見る』を渡邊先生と港さんに伝えてみる。 明日予定が無ければ車で案内したのに残念とは渡邊先生で、港さんはなんと明日は空いているということで同行していただけることになる。 #
by hisakoinui
| 2024-03-20 15:21
| 旅の記録
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さて、1時間ほど平山さんのお話を伺って部屋に戻ると、時間はちょうど午前9時。 毎週日曜日の小林めぐみさんのラジオの時間です。喜多方シティFMをサイマルラジオからスマホで聞いていると、話題は、今日の午後に展示を見てトークを聞く予定の『いいたてミュージアム』でした。ゲストの川延さんがあのアイデアは本当は誰の発想だったのかという展開にしたところが面白かった。小林さんのラジオの声はこうしていつも聞いている私の為だけに伝わって来て、そのパーソナルなあり方がいいなと今朝も思いました。 アルパインロッジにははじまりの美術館の大政さんが迎えに来てくれました。 猪苗代にくれば必ず寄る美術館です。そして今日は本の編集デザインでお世話になっている赤間さんと待ち合わせて、若松まで彼の車に同乗させていただく予定。彼もまた午後のトークに合わせて福島から若松に向かうのです。 はじまりの美術館では、気になる表現のその先という展覧会開催中。障がいのある人たちの表現の中からさらに選ばれた作家の作品が紹介されています。 アウトサイダーアートの濃い作品たちを前にすると私のドローイングなんてとてもかなわないと今日も思いました。 本当にすごい作品ばかり。 ただ、自分が表現していることが芸術であるという認識がない場合のアウトサイダーアートもあり、それは芸術なのか、という問いはなんとなく持って来ました。 その自覚の有無に関わらず見る人を感動させうるものならそれは芸術なのか。芸術はやはり決まりごとの中にあるものではないのか。そうした問いを持ってしまうことがあるのです。 美術館という制度の中で紹介され展示されていることで芸術になり得るという側面だってあるでしょう。 意地悪な見方をしたいわけでは全然ありません。 ありのままの彼らと彼らの作品に対しての私たちの態度について考えてしまうということなのだけれど、でも彼らの作品を見ることで動かされる私たちが確かにいるのだから、それを紹介してもらえる仕組みはとても大切です。それがひとつの文化を作ってもいるのですから。 来るたびに何かの原点に戻る感じのはじまりの美術館です。 猪苗代をお昼前に出て、福島県立博物館に向かいました。 #
by hisakoinui
| 2024-03-19 15:30
| 旅の記録
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3月10日 猪苗代のアルパインロッジに泊まろうと思ったのは、ここで働く平山とし子さんにもう一度会いたいと思ったからです。 2021年の夏、10年目を歩く旅をしている時にここで出会い、富岡から避難してきた高校生たちとのお話しをたくさん聞かせていただきました。10年目の旅をまとめながら平山さんに掲載の確認などをしている中で、もう一度お話を聞きたい思いが生まれたのです。 アルパインロッジは今日も美味しい朝ごはんでした。食べ終わるころに平山さんが会いに来てくださいました。今日は勤務日ではなかったのに、私からの事前連絡でわざわざ出向いてくださったのです。 平山さんは3年前より少しほっそりとしてちょっと綺麗になられたように感じました。そして明るく若々しくなったようにも。 (もちろんそんなことは口には出せませんが、男であれ女であれ、以前より綺麗になったりかっこよくなっていたりする姿を見るのは好きです。何かいいことあったかなと想像するととても楽しいからです。) 平山さんは富岡の子どもたちとのその後の交流のお話をまずはしてくださいました。 3年前には、震災時ここに避難して来てお世話をした子に結婚式に呼ばれていることを嬉しそうに話してくださいましたが、今日は、その子がもうお母さんになっているというお話を聞きました。そんなふうに、平山さんの震災後の物語は続いていたんだとすごく嬉しくなって、その子はもう平山さんの外孫ですねというと、本当に!と相好を崩すのでした。 平山さんは、3年前にお聞きしたような子どもたちとの交流やご飯作りで彼らを愛したエピソードをまた今度も話してくれましたが、3年前には口に出さなかったことも話してくださいました。 ひとつは、富岡の高校に入学して来るバトミントンの選手たちは特別な存在なので、彼らの帰還後のことなどは手厚い待遇となっていること。選手たちのバトミントンの活躍を伝える立派な冊子を何冊も見せてくださいましたが、そのページを開きながら、結局、あの子たちは復興の広告塔になっているんだよねとおっしゃるのでした。 もうひとつは、猪苗代にいる自分には、本当の共感はできないんだということを何度もおっしゃったことです。 平山さんには、浪江町から猪苗代に来たお知り合いがいらっしゃるそうですが、その人の苦労は本当にはわからないというのです。浪江の人たちは、同心円の距離で言ったら原発からはある程度あったけれどあの日の雲の動きがあったでしょう?だから相当厳しいことになったのに、原発お膝元の大熊町とは補償額が違ってすごく気の毒なんですよ。でもそういうこと、私たちには、心から共感できてないし、そもそも本当の共感なんてできないことなんです。それほど、被災のひとつひとつがひとりひとりデリケートで、みんなそれぞれの事情があります。だから気の毒と思っても100パーセント共感できているとはとても言えません。福島ってひとくちで言っても本当にそれぞれで、、といったことを話してくださったのでした。 そうしたことを聞くと、それでは私はどうしたらいいのだろうと思ってしまいます。私など、福島県民でもないわけですから。 多くの暖かな福島の人たちが、そんなことありません、福島を思ってくださるだけで嬉しいんです来ていただけるだけでありがたいんですと優しい言葉をくださるけれど、平山さんですら被災当事者への遠慮と届かなさを持つのだから私など話にならない距離にいるのだと思いました。 今編集中の10年目を歩くの本の原稿を長男に読んでもらったことがあります。その時彼は言下に、お母さんは尊大で勉強不足だと言いました。それは具体的には今日平山さんが言ったようなことに私はしっかり向き合わず何か自分の想像力でカバーできているような気になっていたことを指すのだろうと長男の言葉を反芻しました。その時は厳しい言葉をくれるのはありがたいと思ったのですが、ただそう思っただけで止まっていた私だったかもしれません。 この旅から帰って数日後に会った浜松の友人との会話の中でも、福島に行って来た、13年目だしと伝えると、自分には実感が全然ない、親戚か友だちが被災したとかそういうことでもなければ自分のことにはならないと思うと言われました。 その突き放すような言い方の方が、福島の人たちを傷つけないのかもしれないと思ってその言葉を聞きました。 でも、そうであっても、福島を歩きたい福島を知りたい私がいるのです。 ともあれ、私が福島を歩きその展示をしたり記録を残そうとしていることをお伝えした2021年とその後のやり取りの中で、平山さんは私の何かを信じてくださったのかもしれません。それで3年前には聞けなかった彼女の本音のようなものに触れさせていただけだのだとすれば、それは何かの広がりであるのかもしれません。 そう思いたいものです。 #
by hisakoinui
| 2024-03-18 14:59
| 旅の記録
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