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何と2週間以上も書き込んでいない。
毎日、読むのさえ追いつかないメールやブログ。 今日は25日から始まるドイツ報告展の搬入記録をつける。 今度の会場は全部で90坪のスペースだ、広い。もちろんそのすべてを使うわけではないが、私にすれば、ひとりでこれだけの広さをレイアウトするのは初めての事。 日曜日に、多くを運び込んだ。新しい壁はようやくできた。作ったのは山内さん。 先週、のべ10メートルプリントしたA全版の写真だが、光沢紙はいけなかった。今度はB0ノビのマットロールしにプリントを試みるが、なぜか、プリンタドライバが用紙を定義しない。3時間は格闘したがだめで、結局Y氏のG4をかりる。何のためにノートを買ったのよ、と泣く。 しかし、BOに伸ばした写真はよかった。大きな壁面にまるでスクリーンのようだ。美しい。大きいサイズの仕事ってずっとしてなかったな、となんだか、体が伸び伸びしてくる。 テーブルを作る。古いコンパネの穴をパテ埋めしてサンダーをかける。こういう作業はとても好きだ。ペンキは山内さんがやってくれた。 ドイツで出した小品たちを設置する。さっとやれた。これだけだったら楽勝だよ、と思う。同じレイアウトじゃ報告展ぽくないなと急に思いついて、作品の間にB0写真を設置。かなりよい。 持ち帰ってきた資料たちは、見出しぐらいは日本語に訳しておいたのだが、並べてみると訳の量が全然不十分。まだ翻訳やらなきゃいけないのか、とためいきがでる。 つづく #
by hisakoinui
| 2005-06-22 01:11
| art全般
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強制収容所
ワイマールから10キロほどの森の中に、ナチ時代最大規模の強制収容所がある。BUCHENWALD強制収容所。 ここを訪れるのは2度目だ。前回は緑色濃い7月だった。今度は、3月の下旬。まだ冬枯れの景色の中だ。記念館などがリニューアルされていた。 前回は聞かなかった音声ガイドを聞きながら跡地を歩く。 森を見る。鉄道のあとを見る。『囚人』たちを輸送した線路。移送中に窒息や喉の乾きで多くのユダヤ人や政治犯が死んだという列車。山積みされた死体の写真。人体実験室の白いタイル。火葬場。消毒場。広がるキャンプ跡。広い。 歩きながら音声ガイドの説明に聞き入る。若い女性の声で淡々と続く説明。しかし、知らされる事実はその語り口とはうらはらのものばかり。知っていたはずのことなのに、ここまでも!と聞きながらその凄まじさに立ち止まり思わず目をつぶる。 たとえば、SS(ナチ親衛隊)の話。 ナチスは収容所の管理と運営をSSに任せていた。つまり、あれらすべての凄惨極まるおこないのほとんどはSSによるものだったのである。 でも、心のやさしい、とまではいかなくとも、ごく普通の精神を持ったSSはいなかったのだろうか。あるいは、毎日の殺りくのなかで、正常な精神を保てなくなる人はいなかったのか。 その疑問に音声ガイドが答えてくれていた。 『SSは、幼い頃から、冷酷になる事を訓練されていました。』 訓練?!子どもたちが受けた『冷酷になるための訓練』とはどんな訓練なのか。想像できない。 やさしくあれ、親切であれ、奪うのでなく分かち合えと、いつでも、どこででも、おとなは子どもを育てるのではないのか。 ナチズムによる根こそぎの支配(精神も未来も)を実感した音声ガイドの言葉だった。 ところでBUCHENWALD収容所には他の収容所にはないものがひとつあった。『ゲーテの樫の木』である。SSもこの樫の木だけは切らずに保護していた。樫の木はとてもドイツ的な木でドイツ人の象徴ともいわれる。 囚人たちにとっては、その1本の木だけが外の世界の思い出とつながっていた。 ここでまた、私はボイスに引き戻される。画廊のあるノルドライン州をあとにして、ここはもう旧東ドイツのチュービンゲン州なのに。 収容所跡地で見た樫の木が、ドクメンタ7でのボイスの樫の木プロジェクトと重なっていく。そこにみるボイスの政治性、あるいはアイロニー。 そういうことだったのか、と妙にクリアに着地点が見えた。 『過去の克服』という、よくいわれる全てのドイツ人のテーマ。それが今実物となって、収容所跡地のメモリアルとして眼前にある。こうして実物を差し出され、克服は我々の国是なのだと言ってくる。 しかし私は大変個人的にここへの訪問を経験するほかはない。 まるで女子中学生のように過去のナチスの蛮行におののく自分と、その『過去』に対峙する現在のドイツの姿勢を分析する二人の自分を見る。そして後者の自分は、ボイスによってさらに顕在化するのだった。 #
by hisakoinui
| 2005-06-05 00:48
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たまにはドイツじゃない日記も添えようと思う。 今日は、長男のインハイ予選二日目準決勝、次男のアマ竜王戦県大会、三男の運動会、夫の駅伝レースと、男たちは戦いの日で私は5時起きで弁当作りと応援の日でした。報告展の準備って果てしなくて、こういう整理ってすごい苦手な自分にはたと気がつく。新しい作品作った方がどんなにか楽だろう。 ドイツの続き 庭師のマイヤースさん 浜名湖花博でのドイツの庭作りで来ていたマイヤースさんとシュヴァルツェさん、それからシュバルツェさんの奥さんが一日案内をしてくれる。花博のときほんの少しだけお世話をしたというだけの縁だったのに。 彼らは多く語らなかったがハイソなシュナイダーさんとはまた別の暖かさがあった。 シュバルツェさんの家は古い農家をリフォームした広大なお宅だった。広い庭、犬に馬に牛。ブリューゲルの『農民の結婚式』の会場みたいな広い客間。庭にはレンガ作りのパン焼きがま。 彼らは、とりたててクレーフェルトの特別な顔を見せようとはしなかった。行こうとしていた野外美術館がしまっていたので、4人でぶらぶらする。昼はスパゲティを食べお茶を飲む。彼らとの間には、伝えなければいけない、とか、聞き落としたら大変、という緊張がなくて、それで私は少しドイツ語を話してみる。すると語尾変化の間違いを正してくれる。ドイツ語の語尾変化のまちがいって日本語の「てにおは」ぐらい気になるのかな。たとえば、アップルティーの不定冠詞の変化についてアップルティーを飲みながら直してもらう。そうしたとても小さいけど大切なことについて誰かと話ができることは幸いだ。ずっと走り続けてこぎつけたこの個展で、ようやく一息お休みできた感じがする。 4人であてもなくラインのほとりを歩く。遠くに石炭を積んだ船が行き来している。火力発電は限界で、風力は5パーセントに満たない、原発はすべて取りやめたけど、フランスの原発が生産した電力を買っているんだよ、この国は、と庭師のマイヤースさんが静かに話してくれた。 KEMPENという小さな町に行く。本当に寒い。 Kempenでかわいい買い物袋を買う。スーパーでパンの酵母を買う。もう一度画廊に行ってみたいな、というとオーケーという。できたら、アウトバーンは走りたくないなというと、旧街道をゆっくり走ってくれた。ここは毎年馬のレースがあるんだよ、と両側が林になっている道を走る。 マイヤースさんたちと過ごした一日のおかげで私は、ドイツ人を普遍化しすぎるまちがいから救われたように思う。 #
by hisakoinui
| 2005-05-29 15:47
| art全般
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2月X日 オープニングも終わって今日からギャラリーのあるホテルを離れクレーフェルドへ。そこで、短い間だが、クレーフェルド市の助役さんのお宅にホームステイする。 クレーフェルド市助役のRoland Schneider 氏とは、浜松で何度かお会いしている。浜松との文化交流があるたびにお役目でやってくる人だ。メール交換を時々し、カタログの制作でもお世話になった。大の日本びいきで、本人自ら、僕はファナティックな日本ファンと言う。大変わかりやすい英語を話す方なので、本当に助かる。こちらがわからなそうな顔をしていると別の易しい表現に変え、ゆっくり話してくれる。ドイツ語ではなんと言うの?と尋ねれば、これも懇切丁寧だ。日本語の勉強もしている彼にとっては、コトバが理解できるということはとても大事であることが次第にわかってくる。 シュナイダー家の家族構成は、シュナイダーさん、奥さんのバーバラさんと息子がふたり。ペットはいない。息子たちは二人とももう社会に出ている。バーバラさんは、看護婦さんだ。え、助役夫人なのに?という素朴な疑問を抱いたが、シュナイダー氏はS.P.D(ドイツ社会労働党)の幹部で、どうやら、党の人事によってクレーフェルド市の助役という仕事をしているらしい。つまり、男であれ女であれ働くのは当たり前のこと、という考え方の人なのだ。そして、たとえば日本の地方都市の助役さんが市議会で選ばれるためには、あの、『各地域自治会丸がかえ地縁血縁市議会議員選挙』で選ばれることが前提なのとは大きく事情が異なっている。つまり、彼はもともとはクレーフェルドの人ではないが、SPDの仕事として市の助役という役目を負っているのだ。こうしたことは日本では県知事レベルなら考えられるけど、人口20万の地方都市の行政にまで行き渡っている組織性に軽いショックを覚える。 いま、クレーフェルドの市長は41歳のキリスト教民主党の人で、SPDは前回の選挙で負けたのだそうだ。だから、第一助役はその党の人にかわったようだ。この助役さんもオープニングに来てくれたけれど。 #
by hisakoinui
| 2005-05-25 01:38
| art全般
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2月26日 画廊近くのホテルでの最後の朝食。 ブレッチェンといわれるドイツのパン。フランスパンみたいな固さだけどもうちょっともっちりしていて、小さくてかたちは丸い。とてもおいしくて私は好き。それからコーヒーとさめたゆでたまごとカップに入ったヨーグルトと少しのハム。毎朝同じメニューでBGMはいつもアメリカのちょっと古めのポップスだ。ドイツ人はアメリカのポップスが好きなの?ドイツの若者が聞く音楽を聴いてみたかったのだけど。 ブレッチェンをナイフで横に真ん中で切って蜂蜜をつけて食べながら窓の外のまだ雪が残っている景色を見てぼんやりする。気温は氷点下でも雪が降るのは珍しいそうだ。 ギャラリーに行くと、70歳ぐらいの彫刻家の男性を画廊主のMoenterさんに紹介された。ここMeerbuschに住んでいるかなり有名な人のようだ。 近くに彼の仕事場があるから行っておいでよとMoenterさんが言ってくれたので、彼と車に乗って出かける。私のドイツ語はほんとにカタコトなので、『私はあまりドイツ語がしゃべれません、もしよろしければ英語で話してください』と言ってみたのだが(ドイツ語で)、何を思ったか彼はいきなりフランス語を話しだした。それで私は『ごめんなさい、全然理解できません』と、今度は英語で言ってみたんだけど、彼はスピードを緩めただけでフランス語をやめなかった。どうやら、「この日本人はドイツ語ができない」ということが彼には大きくて、それなら自分が話せるドイツ語以外の言語で話してあげようと思っているらしい。そして多分英語は苦手なんだ。私にしてみればフランス語よりはまだドイツ語の方がましなんだけど、彼がフランス語で言葉を探しながら、一生懸命私をもてなそうとしたり説明しようとしたりしてくれているので、もう言葉について言うのはよして、ドイツなまりのフランス語というのを楽しむ事に決めた。 その時はすぐには気づかなかったけれど、もしかしたら、この人は人生のある期間、フランス語をしゃべっていたのではないか?ずっと昔、コルマールというフランスの田舎町にグリューネバルトの磔刑図を見に行ったときも似たような経験をした。その時は英語が通じなくてフランス語はろくにできないので思い切って土地の人にドイツ語で「すみませんが、、」と話しかけてみたのだ。(だってとっても困っていたのだもの)すると、話しかけられた初老の夫婦は本当に驚き顔で振り向いて、そしてドイツ語で親切に答えてくれたのだ。あとで知ったのだけれどそこは中学の社会科で習ったあのアルザス・ロレーヌ地方なのだった。つまり、自分の国がドイツになったり、フランスになったりした所。 自分の国が時々かわるというような経験は全くないから、私は日本語と言う母語に対して揺らぎがない。というか、私にとって日本語はもう生まれた時から自然にあって変化する事のない空気のようなものなのだ。だから、コトバというものに対してあいまいに付き合っていてもオーケーなんだと思う。 コトバでものごとのリンカクを決めたいヨーロッパの人たちの根拠は、いつも言葉を失うかもしれない脅威にさらされていたというこうした歴史の中にあるのだろうか。(こんなことは岩波新書かどこかで誰かが書いていそうだけれど) さて、彫刻家の仕事場兼自宅はほんとうにすばらしかった。 彼はおもにステンレスの仕事をしているようだが、鉄でも面白いものがたくさんあって、私は少し青木野枝を思い出した。ビデオも写真もやめてくれというので、記録がないのが残念だ。大きな部屋がひとつとそのあとに小さな部屋がいくつも続く彼の仕事場はおそらくはじめは別の用途で別の人が住んでいたものなのだろう。制作のためのアトリエを建てるなどという事はどこの国でもそうたやすい事ではないようだ。 小部屋には紙で作った無数のと言っていいほどたくさんのマケットがあって、私は金属の完成作よりもこちらのほうに共感してしまう。 自宅はまた別の棟にあるのだが、そこに続く中庭には金属の作品がたくさんおいてある。幸せそうにそれらを説明する彼の横顔をはっきり覚えている。 自宅には、多くのアーティストのオリジナル作品があった。部屋は美しく整い、家具調度に凝っている。イヴ・クラインの20号くらいのオリジナルがあったのには驚いた。 彼はどうやらひとりで暮らしているようなのだが、古い写真などもたくさん見せてくれた。 #
by hisakoinui
| 2005-05-22 12:17
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